当方が暮らしている京都の北東エリア、八瀬。
大原の手前、日本海と京の都を結ぶ若狭街道沿いにある静かな地域です。
(私はこちらの出身ではありませんが)この地に古くから住まう人々を「八瀬童子」と呼ばれる事を皆さんはご存知でしょうか。天皇の大礼、大喪の際には葱花輦を担ぐ駕輿丁という役を務める方々です。そんな、いにしえから現代に受け継がれる八瀬エリアの伝統行事「八瀬赦免地踊」を垣間見いたします。
八瀬赦免地踊とは、毎年10月に行われる伝統行事。
平安時代、八瀬は延暦寺配下で雑役免租の地だったそう。1336年の正月。足利軍勢に追われた後醍醐天皇の比叡山御潜行に際して、駕輿丁として弓矢をもって無事守護した功を認められた事により、以後代々明治時代に渡るまで雑役免租されていました。
江戸時代中期。比叡山山門と山林結界争いが起き、朝廷との強い繋がりのもと、柴や黒木などを都に振り歩いて生業を営んできた八瀬童子は、この争いによって大幅な制限がかかり、生業の糧を失うとして幕府に上訴しました。
4年の歳月をかけ、時の老中、秋元但馬守喬知による八瀬巡検がなされ、徳川将軍からもあらたに赦免の地として認められることになりました。
そこで、後醍醐天皇の聖業を偲び、秋元但馬守喬知への報恩感謝の念を忘れることなきよう、芸能「赦免地踊」が奉納される事となりました。このお祭りは、そのような意味がこめられた伝統行事なのです。
お祭りでは、音頭取りと太鼓持ちによる哀調を帯びた曲があたりを包み、灯籠のゆらめきが通りを秋元神社に向かいます。ちなみに、音頭は口伝で受け継がれるそうです。
大変特徴的な灯籠ですが、こちら切子灯籠は、三昧重ねの赤和紙に、透し彫りで数ヶ月かけて仕上げるそうです。重さは約五キロ。その昔、女官からのおさがりであった御所染の着物で女装した、13から14歳の男子が努める灯籠着、灯籠持ちの警固とよばれる青年によって灯籠は支えられています。
幻想的な灯籠の列は、集落を静かに渡って行きます。