普段。
映画館、ライブハウス、博物館、美術館などは基本的に、人と連れ立って訪れる事はそう無い。理由は簡単で、自分の好むものを、果たして人も好むか分からないし、そういう事を気にしながら、顔色を伺いながら何かを観る、という事が面倒だからだ。
今回、3月頭から連休最終の5月10日まで行われている京都国際現代芸術祭「PARASOPHIA」が開催されているうちの1会場である「京都市美術館」に、ようやく訪れる事が出来た。友達を連れ立って。
早く訪れるべきだった。けれど足を向けるのに時間がかかった。「館内全体を使って展示されるらしいし、地下も観れるみたいよ」という言葉に引っかかってくれる友達が見つかったからこその機会でもあった。
ようやくにして友達連れ。どうしてかと言えば、つまり自分はとても、臆病な人間だから。
臆病になるのに理由はある。この会場である「京都市美術館」は、築80年に向けてと謳われる大規模改修工事が行われる。そうなる前の、在りし日の姿のようなものを、事前によく観ておくという事に恐れがあるからだ。
工事内容も、その改修規模もどれだけのものになるのか分からない。というか、京都市のサイトに概要的なものが掲載されているけれど、それを見た所で正直、何がどうなるのか分からない。
分からないけれども恐らくは現在の空気感なりは確実に崩壊(あるいは結界)する筈で、仮にそれを知った上で、現在のディティールを詳細に記憶する事に、またそれらを失う事を認識する事に、とても臆病な気持ちになったからだ。
美術館のある岡崎エリアは、自分が生まれてしばらく過ごした永観堂のほど近くにある。それから数十年経ち、あれほど重厚な造りだった勧業会館は実に味の無い建物に変わり、府立図書館はガラスのでっかい羽でも背負ったみたいな代物になり、動物園もお手軽建材でこざっぱりしてしまい、岡崎グラウンドの外周にあった立派な樹木達はぶった切られ、京都会館は現在、工事用マジックボックスの中。で、展開したらもう、あのコワい位だった重々しさも無くなるんだろう工事中・・・。街の景観や建物の色々なものが変わるたびに、それなりの理由が付けられているけれど、自分のように臆病で、物事のすさまじい変化に耐性の無い人間には、とても悲しい光景に見えてそれらは迫って来る。
そんな気の弱い人間なものだから、考えてみれば渋々、何かが失われる時に思い立ってそこを訪れる時には、その度誰かを連れて訪れている事を振り返る。例えば近年で言えば京都会館の時もそうだったし、母校で昭和初期の校舎を訪れた時だってそうだった。
人連れというのは時に良いものだ。
京都市美術館も、子供の頃から数えられない位に訪れた事があるけれど、今回のそれは館内を巡る度に毒舌で応酬してくれるおツレの存在で、色々と気分は緩和された。
せっかくの国際展なのだから、その感想を・・・というのは置いておこうと思う。
どう考えても展覧会目がけというより建物目がけという目的が大きいから、感覚的にフェアでは無いから。
けれど、今回明らかに感じたのは、「空間が作品を引き立てる」では無く、「作品が空間の素晴らしさを引き出す」という感覚は自分の中で精確だった。
正直、これまでこの建物の中で見た自分の中の美術展の記憶の中で、これほど空間がダイナミックな使われ方をしているものに出会った事が無かった。というかこれまでの展覧会は、あまりに四角でお行儀のよい、いわゆるありがち美術展な空間でしか活用されてこなかったとも、振り返れば思える。だから、今回の展覧会では、最も大きなぶち抜きの会場の高さをいかんなく使った作品もあれば、小部屋を活かした作品もあり、また地下があり、かつて進駐軍が占領していた頃の痕跡もあり、あるいはこれまで使われて来なかったがゆえに傷んでしまっている天上空間もあり、それぞれの空間は実に生々しく、また太ったり、痩せたり、膨らんだり、しぼんだりと無制限の大きな大きな空間にも見えた。
これら、活用のされかたをまざまざと感じた時に、言われている美術館機能の改善か何か、理由は咀嚼した所でよく分からないし、素人が黙れと言われればそれまでだけれど、本当に、それらに手が加えられるであろう今後の運命について、それをオーガナイズする人達は一体、どれくらいのプロなんだろう、本当に、骨の髄まで使い尽くして知り尽くした上での事なのか?という疑念さえ湧いてしまった。
そして、今回の展覧会の試みは、本来ならばきっかけであり起点であり、空間への未来への希望でもあるにかかわらず、この展覧会の後、いくつかの展覧会を終えたら大規模改修に入ってしまうというのは、それはこの空間の持つ大いなるポテンシャルの全て、奪ってはしまわないのかという悲しい妄想すら浮かんでしまった。
ともあれ、実はとんでもない空間を、先人たちは造られたんだと言う事だけは違い無い。