「およそ過半数がイヤがる選挙ネタ」
〜お願い事が長過ぎて、短冊もロール紙だな七夕編。
中学の頃、生徒会長をやってみた。
それまでずうっと学級委員だったりした総仕上げ。物事の方角や流れを作ってみんなで盛り上がるプロセスが、子供の頃は素直に好きだった。
けれど実際やってみるとそう、単純な話では無かった。クラスのような少数単位で祭りを共有するのとは訳が違う。毎度の全校集会は無関心か静かな敵視の壁。学校でも人気の子らを生徒会に集めてみたりと、人事はばっちりのつもりだった。しかし低迷すると、幹部仲間すら全体と同じく萎えて傍観側になる。
そんなある日、全校生徒からのアンケートで、今で言う所の生徒会に向けた思いきりヘイトな書き込みを見つけた。家に帰ってわんわん泣いた。
その時親は慰めるかと思いきや、「生徒会言うのは、生徒の側の人間で代表なんや。学校側は体制や。お前はよお考えんと体制側のお利口さん人間になってないか。そんなヤツ、どんなけ嫌味か」と。
なんて事を泣いてる子供に向かってと今なら苦笑いだけど、その時は情け容赦なく人間扱いされてる感じがフィットした。以降、軸無しにふらふら迎合しそうな意識を削ぐ。原稿は絶対見ながら話さない。かしこぶらずに自分の言葉で話す。間を置いて全体を掴む。相手の目をよく見る・・・なんて、色々工夫してみた。学校側が理由無しにただ却下する学校祭イベントを通すのに、校長室に立てこもったりしてみた。おおかたの同窓生らは、そんな地味過ぎる裏話は知らない。
そんなこんなで高校に入ってもそういう事をやるかと思いきや、当時、時代の置き土産みたいにとてもリベラルな校風の、学生の権利主張と言いつつ、校風スタイルのモデルパターンを結局はなぞってるに過ぎない、名ばかり革新、実は保守な自治会(生徒会の事を母校ではそう称した)に、それは違うよなあと感じて、15歳にして政治活動からきっぱり引退した。
ただ、今思えば組織を形骸化させたのには学生も学校も、誰も、勿論自分も一役買っていたんだというのを理解しては無かったなと振り返る。
さて。選挙権を得てから、欠かさず投票には行っている。当たり前でもあり、人によってはこんな事言うだけで引かれたりするんだろう。
投票に行かない人を批判するつもりは無い。親兄弟や親戚、友達でも無い、要はよく知りもしない人に財布や下駄を預けるなんてそう簡単な事じゃ無い。遠くに感じるものをあえて選ばない人の気持ちも分からなくは無い。
だいぶ若い頃。親に、「候補者が誰も選べへん時あるやん。そういう意志表示も込めて白紙で出すのはあかんの?」と尋ねたら、「それは勉強が足りんし投票義務を果たしたとは言えん」と返された。曰く、本当に全ての候補者の話す言葉、書いたものを精査したのかと。それでも選べないと言うなら、現状に満足なら体制側、不満があるなら反体制側を選べ。不満があるにも関わらず白紙や投票に行かないのは、結果数がものを言う体制側に票を入れたも同じと。
そうは言っても、結局どこも根っこは同じやん?という問いをしたくもなる時がある。けれど残念ながらもう、親はこの世に居ない。先人とは往々にして遠く投げかけだけ、具体的な命令は決して発せず彼方へ消えてしまう。
まだまだ若くて、勉強しながら紆余曲折しても色々とゆとりがある、夢と希望の幻が抱けて、いろんな嘘もまあねと構えてやり過ごせる時代性が過去確かにあった。実は問題というのはとうに始まっていて、それが今や大きなツケで回ってきただけと言えばだけの現代。いや。走り去るものをそのまま素通りさせてきた代償は、実際あまりにも大きかったと途方に暮れる昨今がある。
とは言え、自身が真ん中で物事を動かす訳でも無いのに、あまたの不満に理屈をこねて、周囲に気だるいムードだけまき散らして、日常をやり過ごすのもやっぱりイヤだな。あるいは君らの見てる事は間違ってるんだよねと切りつけ、ほらそんなのも分かって無い僕は知ってるぞなんて、意識高い系素人評論家に出くわすのも気だるい。もうちょっとね、せっかくだから冷静になって自分の目や耳、頭使って考えたい。感情論に惑わされず直接、発信者の真意を見極めたい。そして、自分は何出来るかな、何やっとるんだと振り返りたい。
大変残念ながら、自分達の暮らす足下、地域、国を動かすのに政治は欠かせない。真ん中で志高く、なんだかんだ実際頑張ってる人達だって同じ人間で、善かれ悪かれ周囲に評価されなきゃもっと頑張れない。無視を喰らったり放置されれば、誰だって思い上がったり道を間違ったり、クサる事もズルする事もある。
そして自分達は観客側とたかをくくっていたら、実際ここで暮らしているのは自分達自身なんだからやはり、そうは言ってられないのである。
近頃は期日前投票がとても気に入っている。日中の暑さを逃れて、静かになった夜の役所は気分も変わるし、面倒事は先送りするんじゃ無く、さっさと果たしておくのが性にあっている。
帰りはちょっと、美味しいもんでも食べたりなんかする。不埒な気持ちも、こんな時は少し許されるような気がして。