南禅寺の開山塔「天授庵」へ。
春も間近になると、心振れる事が少し重なる。人の別れも旅立ちも、それから草木の芽吹きも、いよいよ持ちこたえていた緑が枯れて次の新緑を待つ事も。今の今は酷な事も、それが大きな転機にもなる。考えれば全ては悪いことじゃ無い。
けれど場面転換の立ち会いというのは、ハラハラなのか、ワクワクなのか、ざわざわ、なのか。
そんな頃の京都というのは、ありがたきかな観光アイドルタイムで人もまだ少ない。だから誰も居ない境内などに佇めば、静かな気持ちが取り戻せるように思う。
寺のしおりを読むと、当地で離宮を営まれた亀山上皇はその昔、妖怪の出現に悩まされたが、これを一言の読経も用いずに座禅するのみで静められた東福寺の大明国師に深く帰依されたんだそうだ。妖怪か。。。今の世ならなんと例えるだろう。
ちなみに、私は生まれて3歳まで、この辺りで育った。なんでもちょっとばかり大きく言う一番上の兄は、永観堂の鯉を捕まえては郵政借家の家の池に放していたそうで、それがバレて和尚さんに境内の木にくくられたらしい。そのいくつかをはしょっても、なんとも牧歌的というか、ふんわりとした気持ちになって、あまりに幼過ぎて覚えの無い生まれた岡崎の地に訪れるとやはり、心穏やかになる。
なにより、この辺りの西日は時々ことのほか美しくて、何かを得たような、そんな心地にもなるのだ。