鹿児島にて。
市内の主要な観光地へは、一日乗車券が便利だ。バス会社がいくつかあって、乗車券が使えるもの、使えないもの、市電も乗れるもの、乗れないもの、その辺りが若干分かりにくいが、その点だけ踏まえておくと、約1時間で観光地が巡れて、車内の案内に耳を傾けていると、どこで何があったかの歴史分脈がなんとなく分かってくる。1時間に数本走っているので、途中下車して散策し、また次のバスに乗ることも出来る。
流石に今年の鹿児島は大河ドラマ効果で、元来宣伝下手だったはずの、黙して語らず傾向だった鹿児島も、あちこちで盛り上がっている。お土産パッケージも各社とてもおしゃれになったし、特産物を前推しすることも大変得意になった。そう、鹿児島は実は、美味しいものの宝庫でもある。
ちなみに、親戚の中でも叔父らはあまりに西郷さんへの敬意が溢れ過ぎて、ドラマは(事実と異なっていると腹立たしいから)見ない、ときっぱり言ってる。叔母らはこそっと録画もしてるとの事。加えて、私も「西郷(せご)どん」なんて呼び方は聞いた事が無いけど、叔父や叔母から言わせると、「せご」もそうだけど、「どん」なんて「まず言うわけが無い」と言い切っていた。〇〇どんと言う言い方は、目上の人へは決して言わないし、〇〇さん、あるいは〇〇さあ、と、薩摩は方言の中にもはっきりと細かく、敬語が存在する。
私は、鹿児島の人らの、思うところがあると臼のように動かない感じについ、惹かれてしまう。
ところが、あのなんとも無骨な、昭和臭で満ち溢れていた桜島フェリーの桜島側の建物も、旧来の建物のすぐそばに新しのが建てられていて、拍子抜けするほど今風のナチュラル系カフェが入っていた。そんな真新しい所に切符切りのおじいさんはそのままだったけど、「いよいよここでも昭和が終わっちゃったんですね、びっくり。」と声をかけると、「長いこと使ってたんだけどねえ。でも、平成ももうすぐ終わるから、えらい飛び越えてしまった」と返ってきた。今後は旧建物は壊されて、バスのロータリーになるんだそうだ。なんか、あのタクシーの待合の感じが重々しくて寂れてて、それはそれで良かったんだけどな。
さて、今回は市内での許された時間は僅かだったので、この便利なバスシステムを使い、やっぱり外せない錦江湾と桜島を間近に眺め、それから、西郷隆盛のお墓をお参りする、という目的だけを果たす。
西郷さんをお祀りする南洲神社は、西南戦争で新政府軍に追い詰められた西郷さん率いる薩軍が最後の戦いを繰り広げた城山の麓にある。城山にはかつて、島津の本拠として築かれた城があった。その地を最後の戦いの場所、そして亡くなる場所として選んだのも西郷さんらしく、政府軍に反旗を振るったにも関わらず、名誉回復のために働きかけた周囲のご尽力あって、かつての功績が認められたのも、またこうして葬られたことも、実に西郷さんという人となりを表している。そしてこちらの神社のそばに「南洲墓地」があり、そこには西郷さんと共に戦った2023人の志士が、西郷さんのお墓を中心にして眠っている。
叔母からこの度、この南洲墓地には祖母方の親戚で、父親の大叔父にあたる方も眠っている事を教えてもらった。父親は生前、その事を教えてくれなかったと叔母に言うとちょっと驚いたが、「あんたのお父さんは、バツが悪かったんやろね」と返ってきた。曰く、この大叔父のご兄弟は、鹿児島から京都に出て警察官として奉職しており、その際、高校を卒業して鹿児島から京都に出てきた父親は、当時公務員に就けるよう便宜してもらったそうだ。時は戦後、間もなくの頃である。京都工芸繊維大学の夜学に通いながら、昼間は公務員として働いていた父だが、やがて京都大学や立命館大学の学生さん達と学生運動に関わるようになり、大学を中退し、職場で労働運動を主導してゆく。そんな訳で、大叔父としては対面上ドロを塗られたと大変お怒りになって、祖母は実家まで迷惑をかけたと謝りに行ったこともあったそうだ。
知っている事と、教えてもらわない限りは知らなかった事というのは、時を経て本人不在となると両側に増えてくる。「あんたのお父さんも、戦争中は兵隊さんになるって、えらい言うとったんやけどね。戦争が終わったら、今度は戦争反対よ。」と叔母が教えてくれたので、「父親も戦争体験者として戦後のいろんな思いと、彼なりの強い正義があったんでしょうね。」と私は答えた。
振り返れば父は、いわゆる末端闘士にありがちな、前にのめって相手をただ凶弾したり、口悪く呼び捨てにしたりするような人間では決して無かった。演説もわめきたてたりすることは無く、より多くの人に聞かせて考えさせるコツというものをしっかり計算していたと思う。田中角栄のキャラクターと話術には常に一目を置いていたし、ヒトラーの演説スタイルも、「みんな、盛り上がった最中の拳振り上げて叫んでる姿しか知らないけど、演説スタートはどれだけ、聴衆に静かに語りかけてるか。とにかく上手いんや。」と、そう言えば子供の頃教えてくれた。
安月給のくせスーツは毎度テイラーで仕立てていたし、お帽子が好きで、髪もきれいに櫛を持ち歩き、ヒゲもはやさず、酔うとロシア民謡かカンツォーネを歌い、一方で日本の文化、芸術、景観、工芸品、古典をこよなく愛していた。五月のメーデーは小さい私ら子供のいずれかを連れて手を引き、サングラスをかけ、暑い中もスーツ姿に革靴の良い足音を響かせていた。九州男児返上、フェミニストであるべく努力していたし、「女らしくせよ」なんて類いの言葉を、私も言われた事が無いし、男の子とつかみ合いの喧嘩をして帰ってきてもむしろ頼もしそうに笑っていた。口数は少なく、何でも喜んで家事をやる人だったが、どうにも女運には恵まれないと言うか、味方からすれば女の見る目がないというか、相手を守るツボを心得てなかったくせ、多分究極の寂しがりでもあった。自分と思想の違う人とも親友になれたし、一線を退いた後、最晩年に大変よくしてくださったのは、共に活動した人よりも、そうではないノンポリあるいは右側の人たちだった。その辺りのマネーバランスというか、感覚的人間的なバランスが全く理解出来ずに母親にとっては格好の糾弾ポイントになっていたが、多分、なんだかねずみ色した、お世辞にも格好の良いとは言えないプロトタイプでガチガチの労働闘士だったら、若き日の母親ら女性陣は、憧れることも惹かれることも無かったんじゃないだろうか、とも思う。
その人その人の世代の生きた時代背景と、故郷や家族、友人から繋がるアイデンティティが重なる時、その人がようやくどういう人間だったのか、というのが見えてくる。ある人にとっては矛盾にしか映らないものが、それこそ人間らしさ、その人らしさでもあり、理解を進める時にまた、何事も時には悲喜こもごもに必然であったのかもしれないのではと、許容する範囲も増すはずである。
ともあれ、今回はその父が生前、私の祖父であり父の父である人と、子供の頃に登ったそうな石段を登って、西郷さんと、そのたくさんの志士、その中におられる私の血の繋がった方へ、初めて手を合わせる事が出来た。
加えて今回、郷里、霧島の伝統工芸品であり、父が生前欲しがっていた錫製の酒器の話をすると、叔父が記念だからと言って、揃いのお猪口を買ってくださった。これで住む場所は離れていても、共に同じく杯を交わせるという、大変粋でロマンチスト、深い優しさ沁みるお心遣いである。私たちは誰もが、どこかでどこかに繋がっている。
錫器は手に取ると小さくもとても心地良い重みのある杯で、色味や姿は果てのない宇宙のようだ。
一生の宝物を授かった。