京都造形芸術大学での公開講座を受講した。
京都の有名人、文化人によるリレー形式の講座で、総合のお題は「京都学」。が、そのうちの回で、裏千家15代元家元の千玄室さんが登壇されると知り、これはお茶濁し的京都学などに収まろう訳が無いと思い、参加申し込みをした。リレーに登壇される先生方いずれも素晴らしく、学生の人たちも若いうちから、雲の上の方らのお話がこんなに身近で聞けて羨ましい限りである。と、言うほど凄い事なのは、きっといつか、5年、10年、数十年後先にみにしみるんだろう。私にとってはここで、どれほど尊敬しているとか、ぜひともお話を直接聞いてみたいとか、その思い、どれだけ溢れていたかについては、言えば言うほど言葉が上滑りして軽々しくも、なので、止めておこうと思う。
「皆様。御機嫌よう」。舞台袖から現れた大宗匠は、深々と美しいお辞儀をされた。前説でスクリーンに大写しになったご自身のお顔写真に恐縮しつつ、自己紹介として、「お茶で生まれて、お茶で死んでゆく男でございます」と発せられた。
大きな上背にして、その存在感。身振り手振りも大きく、壮大に語られると思いきや、小さく細かに体を畳まれて遠慮される。そんな風に仰られるともう、誰も、ぐうの音も出ない。言葉に落とし込むなら、色気、としか言えないから、自分にはまるっきり、文才はおろか、なんでもない人間なんだとズドンと落ちて、もっともっと、小さく小さく小さくなってしまう。が、そこですかさず、「生まれてこの方、お母さんのお腹にいたときからお茶で生きて、もう95歳でしょ。私の血はね、赤色じゃあ無いんです。もはや緑色、グリーンティーなんですよ」と笑いを取られる。そして続けて、「先日、靖国神社に(兵隊時代、ともに生き残った)仲間と参ったさいね、もう、仲間と言っても生きているのはわずか数名でね。まあ私もこの歳でしょう。みんなね、もう、ヨボヨボしてるの。で、『おい千くん。君はなんでそんなに元気でいられるのかね』と皆が言うもんだから、私がこうしているのはお茶のお陰。健康にも良いし、深い教えがあるからねと言うたんです」と大宗匠。こうして、冒頭からご自身の戦争体験を語られる。
今から73年前の昭和20年。大学2年生の時に学徒動員で海軍航空隊へ。九州の南端、鹿児島県の鹿屋航空基地へと配属され、特別攻撃隊としての訓練を受ける。要するに、いずれは片道切符の特攻隊として、戦闘機に爆撃を積み、敵軍に身をもって突撃する運命の道筋がほんの目前に示されていた訳だ。かの、裏千家の次期家元をもってしてそのような命令が下るという、当時の末期状態たるや。
この辺りのくだりは、以前テレビの「徹子の部屋」で、語られていたので大筋で知ってはいた。自分たちの乗る機体の傍にて手持ちの道具と配給の羊羹で心ばかり、お茶をたてたことも、そしてこれら経験を持って、毎年、世界中を渡り歩いて平和の大切さを説き、慰霊の献茶を行われているお話も知ってはいた。けれどテレビ越しと、実際に目の前でお話しされると言葉の距離感がまるで違う。
結局、3回の志願も叶わず、戦況の慌ただしさと止むことの無い待機命令の後、松山の基地へと転属され、やがて終戦を迎えて今日にあられる。「621人の仲間。我が身の命をもって、日本を守りたい、こんな目には将来の日本に合わせたくないと体を張って死んでいった仲間は、今も沖縄の海で眠っています」。
原稿無しの語り。この話はどこにどう繋がって、終えられるのか。
場面は行きつ戻りつ、体験談に史実、引用を用いながら滑らかに変わり、日本の歴史、茶の歴史、そして、千利休のお話に触れられる。隣国である朝鮮を攻める秀吉に対して異を唱え、その結果、千利休は切腹を命じられた事にも。
ご自身の父で当時の家元から、大宗匠が軍隊に入る際、初めてその、千利休が切腹の際に用いた刀を見せられたのだそうだ。「父親は何も言いませんでしたが、『卑怯な真似だけはするな』と、その刀をもって、言いたかったんだろうと思います」。
文明というのは、人間がいかに生活文化を享受させ、発展させるものであるかを説き、その昔、日本がどれだけ中国から影響を受け、朝鮮からの渡来人と血を繋げてきたか、隣国から様々に影響を受けたものを日本化(国風化)し、国内において文明として発展させてきたかを説かれる。そして、茶の教えに例え、受け継いだ「かた」に、型だけでは無く血(心)を通わす事で初めて、つまり「かたち」となるのだとされる。こと、京都においては「有職文化」「茶道文化」「天皇文化」の3つの成り立ちによってこれらは発展し、長い歴史の中で実際には何度も戦火に見舞われつつ、その度に復活し、小さな世界ながらも大切に継承され、今に繋がり至るのだと語られた。その昔、父から茶の道を教えられ、1から10と学び、また1を知り1に戻る事の謙虚について繰り返し言われた事。時に今の会社経営者、現代日本人、あるいは政治家をさらりと比べつつ、茶の道、人としての姿やあり方を問われた。
「みんなね、お茶碗を何遍も何遍も回してね、そんな、お茶碗を(ただただ)何遍も回したらええってもんじゃ無いんです」と場内の笑いを誘いつつ、「正面を避ける。それで良いんです。」と仰る。「つまり、正面を避けるというのはね、遠慮すると言う事。謙虚になるという事。半歩下がるという事。これはね、何にでも言えるんです。なんでも正面からいけばね、みんなぶつかってしまうんですよ」と、お茶の作法に合わせ、「今はなんでも、我が、我が、でしょ」という風潮に対して警鐘をならされた。
茶道とは、まあ一服どうぞと互いにすすめ合うもの。頂いたものに感謝して、相手に感謝して、ゆっくりと時間をかけて、舌で、口で、腹の中で味わうもの。同様に、お隣の国も、我が国も、隣人も、正面からぶつかるでなく、敬い、譲り合い、深く理解し合う事。
およそ80分の独演会ならぬ講義終了後。
会場からほとんどの人が退出される中、お話に脱力してもたもたしていた十人ほどのの中に私も滞留していた。すると、舞台から引かれて、普通なら舞台袖から控室まで直通される所を、大宗匠は企画側の意図に反して、舞台にふわりと戻ってこられて、そして舞台からなんと客席側に降りてこられた。まるで神々しい人の大きく広げられた腕に吸い寄せられて、わあっと、皆で囲んでしまった。大宗匠は、それぞれと言葉をきちんと交わし、握手され、そして写真を一緒に撮りましょうよと、声をかけてくださった。私も、カタカタ震えながらご一緒にお写真を撮って頂き、握手して頂いた。大変大きな手で、決して強く握られることは無かった。
長く茶に関わっている我が友達らからすれば羨ましがるどころか、きっと怒るに違いない。それは申し訳のないことと思うと同時に、この瞬間、この空間、そして同じ時間軸でなんとか、少しでも触れてお話をおきかせいただけた貴重な機会に、ただただ感謝するしかなかった。ご一緒に撮って頂いた写真は、ここであげずに大事な宝としたいと思う。考えればあまりに恐れ多い。
生きて今、皆が平和であればこそ、そしてこのように、お茶を通して平和を説かれる意義と存在の在り方を、まさに命をかけてご自身の使命とされておられるからこそ、こうしてお出会い出来たのだから。
お話いただいた事、決して忘れずにいたい。