皆さんは、映画「ひろしま」をご存知だろうか。
先日、NHKで「忘れられたひろしま~8万8千人が演じたあの日」と言うドキュメンタリー番組があった。その内容は戦後間も無く、原爆の記憶も生々しい頃に制作された、広島原爆を描いた幻の映画「ひろしま」が何故、そのかけられた制作エネルギーにも関わらず、知る人ぞ知る幻の映画のごとく埋もれ、人々の記憶に残らなかったのか、と言う背景に迫ったものだ。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259675/index.html
番組概要↓
https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_19.html
注)NHKオンデマンドで8月24日まで見逃した人は購入し、視聴することが出来る。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2019100367SC000/?capid=nte001
その後、17日深夜には同映画もNHKにて放映されたが、残念ながら見る事が出来ず、地元京都は出町商店街にある出町座という、カフェや書店などが併設されている小さな映画館にて上映中と知り、観に行く事になった次第である。
https://demachiza.com/movies/4477
注)8月23日で終映。
さて、私もこの映画の存在についてはうっすらと知りながらも、実際にはどのようなスケールで、どうした経緯を辿って、またそもそもでどういった内容だったのかを直接的に知ることが今に至るまで全く無かった。
これはわざわざ特集でも何故の理由が追われているくらいだから、存在の無知が圧倒的なのだろうけど、個人的にも、どうしてこれまで見る事が無かったんだろう、それどころか原作も、関連するその他書物も触れる事が今まで無かったのかが非常に不思議でならなかった。
何故なら私個人の場合、京都というとてもリベラルな街の(と、政治的な話になると他地方の人から結構指摘される)、その中でも特に左京区(の、特に京都大学を中心としたエリア)と言う土地柄で子供時代を過ごしてきたから。同じ市内在住者で同世代と話していても、ある側面での子供の頃の主には学校での体験がまるで噛み合わないほど、通っていた小、中、高校において、平和教育や人権問題等についてホームルームの時間が割かれ、こうした映画鑑賞(古いものも含め)や読書の機会、また感想文の提出や討論会などが学校主体で熱心に行われる中で育った。加えて自分の場合は両親に至っても、よその家からすれば大変リベラル思想な親だったし、子供の頃は聞き齧った知識で「これが戦争中だったら、特高に連行されるんやんね」と親に尋ねるほど、そうした戦争関連を始めとした書物が親の書斎にはたくさんあり、本来ならば子供への教育材料として大推奨しそうな筈の内容が、この映画及び付随するものだけが何故だか、すっかり欠落していたのである。
何故か。
その訳を知るにはまだまだ資料たるものが不足してるし、周りにはもう質問すべき当時の大人が不在なので、今や経緯を調べたり、資料となる作品物を紐解いて想像するしかない。故に自分なりの結論を今の未達な段階で綴る訳にもいかないが、もしもこの映画やその時代背景について興味がある人がおられるなら、上記に挙げたオンデマンド放送の期限も、そして京都での映画館上映も期限が差し迫っているので、取り急ぎ現段階でわかったことや思うことを書き記しておこうと思う次第である。
ちなみに、ドキュメンタリー番組を経て、映画を観る前に、追加的に調べてわかったことは以下の通りだ。
まず。映画の原作本「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」について
映画誕生のきっかけには、原作本がある。そしてこの原作本をもって、実際には「ひろしま」よりも先に「原爆の子」と言う映画も製作された。つまり一つの原作本に、二つの映画が存在する。
自らも広島で被爆した教育学者で、広島大名誉教授の長田新による編集刊行の作品集「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」(1951年・岩波書店)という、原爆を体験した小学生から大学生の少年少女たちの手記がその基となっている。
このような書物を出版した動機について、教育学者であった長田新が、「原爆が人間、特に感受性の強い少年少女の精神にどのように影響を与えたか」という事に関心を持ち、被爆した少年少女の手記を集めて平和教育の研究資料とする計画から始まったとされるが、市内外の小学校から大学、孤児収容施設の校長や教師を通じて手記の執筆を依頼し、その結果1175名から手記が集められたとされ、そこから選ばれた105篇が岩波書店から刊行された。
加えてNHKの特集では、当時は世界大戦後の朝鮮戦争の最中、GHQによる支配下でもあった日本において、原爆について語る事、記述される事は占領軍による厳しいプレスコードのもと被害実態は内外でほとんど知られていなかった事(原爆以外の情報においても勿論。以下注釈あり)、そんな中でも「流石に子供達の手記ともなれば、GHQから検閲されることもなかろう」という考えによる趣旨説明も、当時の関係者によって語られていた。
子供達の原爆手記は、ほどなく世間の反響を後押しに映画化された。
このような中で出版された「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」は、当時瞬く間に日本中で話題となり、さらには世界各国に翻訳され、2009年時点までに14の言語で翻訳出版される。そうした社会的反響の大きさから原作を元に映画化が企画され、結果的に2本の映画が誕生した。
ひとつめは1952年公開の、広島県出身の新藤兼人監督による「原爆の子」(乙羽信子他出演)。そして、本来なら制作に関わることで話が進んでいた先の「原爆の子」について、脚本内容に意見が合わなくなった日教組(日本教職員組合)が共同制作から降りて、これとは別に、日教組が制作する映画「ひろしま」が翌年に公開された。こちらの監督は新潟出身の関川秀雄である。
GHQ検閲下時代における、日本人による最初の原爆を扱った映画や書物について
ちなみに、原爆を扱った書物には長崎医科大(当時)助教授で自身も被爆しながら被爆者の救援活動に当たった記録「長崎の鐘」(永井隆・著)があるが、終戦の翌年である1946年には書き上げられていたもののGHQによる検閲で出版許可が下りず、49年にようやく、日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である「マニラの悲劇」との合本とすることを条件に出版され、ベストセラーになった。この記録本も映画化され、日本人による原爆を取り扱った劇映画第一号となる。そしてこの映画化に際しても、GHQによる検閲があった。
映画監督は、のちの「原爆の子」の監督でもあった新藤兼人で、独立プロダクションの先駆者でもある。この映画の脚本にて検閲によりいくつかの場面が削除されたことを受け、新藤監督はGHQによる検閲解除後に再び映画製作を企図した。それが映画「原爆の子」である。
「原爆の子」と「ひろしま」。両映画の分かれ道。
さて、先の2作品について話を戻そう。
これらの映画内容の違いは大きくいい当てれば何かと言うと、「原爆の子」は原爆投下の7年後も続く被爆者の苦しみに焦点を当てたとのこと。そして「ひろしま」は、原爆投下時の地獄絵図の映像化に精力を注いだとされるのが大きな違いと言われる。
また、公開に際してこの二つの映画の評価としては、「原爆の子」では日教組が先の理由によって共同制作から外れたが、制作費300万円の独立系プロとしては異例の配給収入5000万円を記録し、当時の文部省特選映画にも選定されたと言う。配給元は北星(独立映画の後身。後の大東興業)。一方、カンヌ映画祭に出品された際には日本政府が映画の海外上映を好ましく思っていなかったことや、アメリカの圧力によって外務省が受賞妨害工作を試みたことが、のちに公開された外交文書や外務省文書でわかっている。その後、世界各国で映画賞を受賞した。
次に「ひろしま」だが、日教組、そして日教組に参加する広島県教職員組合と広島市民の全面協力で制作され、8万8000人以上の市民エキストラが手弁当で参加し、市や地元企業の協力の元、実際のロケ地や、提供を受けた被爆衣類、家庭用品など小道具も多く使用され、徹底したリアリティが追求出来た。制作費は全国の教職員組合からのカンパで2400万円が集まる。
主演の月丘夢路は当時すでに大スターであったが、ノーギャラかつ所属映画会社から出演について大反対されたのを押し切ったのは自身が広島の爆心地近くの出身者であったから。
完成後、制作側が全国配給元として交渉していた松竹(NHK特集では固有名詞は登場せず)側が、前年までプレスコードを敷いていたGHQに配慮(と、推測される)、いくつかのシーンにおけるセリフについてカットする事を条件として出し、しかしながら制作側でこれを拒否。その後他の大手映画会社5社も配給を拒み、結果、制作プロセスにおける潤沢な資金や好環境、関わった人々や内容の壮大さに反して時代の片隅へと追いやられ、幻の映画となる。配給元は制作側の自主上映及び「原爆の子」と同じく北星。
1955年、第5回ベルリン国際映画祭長編映画受賞。
注)GNQのプレスコードとは?
時代背景説明の付加ー
GHQによる7年間(昭和20年から昭和27年ー1945年~52年までの占領下)の
新聞報道を規制した「日本新聞遵則」(放送も同様)には、
「連合国最高司令官は日本に言論の自由を確立せんがためここに日本出版法を発布す」
と冒頭にあるが、
「連合国進駐軍に不信、憤激を招来する記事は一切掲載すべからず」
とあるように、実態は厳しい検閲方針の発布だった。
「削除または掲載発行停止の対象となるもの」の一例。
連合国戦前の政策の批判
連合国最高司令部に対するいかなる一般的批判
極東軍事裁判に対する一切の一般的批判
日本の新憲法の起草にあたって連合国最高司令部が果たした役割についての一切の言及
出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行われていることに関する直接間接の言及
アメリカ合衆国に対する直接問接の一切の批判
これらを踏まえつつ、ドキュメンタリー番組の映像で、特に印象に残った(あるいは突き刺さった)のは以下、実際に広島で被爆し、その体験は手記にも掲載され、映画「ひろしま」にも出演した一般人エキストラ(当時は子役)の回想の言葉である。
(但し、その際の言葉の一語一句をトレースした訳でないので、正確に知りたい人は是非オンデマンド放送から実際に聞き取って欲しい。)
「ある日学校で原爆を体験した日のことを書けと言われて書いた(注ー映画の原作本である手記の事)。が、それはなかなか書くことが出来なかったし、また本当に(気を衒わず)そのまま素直にも書いた」
「映画出演を周囲の大人に反対され、要は『あのような映画に出るのはつまりアカである』と言う政治レッテルを貼られた」
「(映画に関わることを咎めるべく)学校の校長室に呼び出された」
「自分たちは間違ったことをしていないとも思った」
「そうした板挟みに合って苦しみ、その後は映画『ひろしま』にも、また故郷である『広島』にも関わることをやめて、大学からはよそに移り住んだ。今、ようやく向き合うことが出来るようになって思うことは、大人が自身のイデオロギーを、子供を使って表現するというのは間違っていると思う」
「映画出演で目にするロケでの光景は当時の体験を思い出され、吐きそうになったし実際に吐いたかもしれない」
「結局、どんなに映画にして忠実に再現しようとも、実際の状況を再現することはできないし、実際に体験してみないと、その惨状は分かる訳が無い(伝わる訳がない)」。
番組では一通り、時代背景や、検閲される状況、映画内容及びオリバーストーン監督の作品についてのお墨付き、さらにはアメリカの配給会社も注目しているとの現状も示されつつ、ある種公平に、実際に関わった人々でかつての子供達の率直な証言にも、カメラが向けられていた。よって、この映画がほぼ幻と化したことについて、ある程度の知識と時代背景とこれらの証言をもってすれば、ただ単純に「検閲」や、近年よく言われる「忖度」があって、あるいはそうした事を強いられた状況だけによって、それらを悪とするにはあまりに短絡的結論過ぎる、もっと深い心理的かつ複雑な経緯を経て、映画「ひろしま」は幻と化してしまったのであろうことがうかがえる。
8万8千人以上の広島市民の参加により作られた映画であっても、実際には制作過程で他方の一般市民や教育現場から、子供たちに政治レッテルを貼ろうとする向きや、教育現場からも参加を咎められるような状況にも対峙していたと知ることも出来た。
奇妙な重なりとしては、表現の自由を奪うなかれ、いや展示するなかれ、果たしてそれは芸術なのかプロパガンダなのかと昨今話題の某ビエンナーレの話題にも似て、ただそうした「表現の自由」あるいは「知る権利」たるものを奪うのは体制による検閲、あるいは体制側への忖度であるとか、そう簡単に言い切り難い複雑な背景があるのだとも思い計る次第だ。しかしながらいずれの場合も、登場する作家(演者)や作品自体は置き去りにされ、また観る側もその作品に触れる機会を奪われた点も類似すると思う。
これでは、検閲や忖度を嫌う側である企画側すら同罪、とまでは言わないにしろ、公開を阻んだ体制側と主義主張は全く対極にあれど、同じく結果的には観客側にも出演(出展)側にも、同じ結末を与えてしまったことになる。
ともあれこれはいよいよ映画を実際に見なければならないと思ったし、見ないままに語るのは主義に反すると思った。加えて、映画を観る際に見極めたいと思った点は、以下の通りである。
それはもちろん、映画そのもののクォリティもそうだし、実際には本当に、未来に渡って記憶に残すべき貴重な映画であるか、と言う事。そして、当時松竹が配給の条件として迫ったセリフ3点の削除が、果たして主張として妥当であったのか。あるいは、削除される事で映画自体の内容や重みに影響が生じるのかを自分なりに見極めてみたい、と言う大きく示せばその2点である。
不当な検閲や忖度については断固争うと言うのは、私も表現者の端くれだから理解出来る。が、一方でそれが果たして表現の根幹と為すものなのか、あるいは製作者側の検閲等への絶対的拒否から現れる感情論であるのかは推測したい。仮に、この映画がより広く、権力からの支配から解かれて、それまで共有されてこなかった国内外に、原爆の悲惨さを知らしめたい、平和教育の貴重な資料として大切にされたい、と言うのが根幹であれば、大手配給元との擦り合わせや妥協点を見出して、時にしなやかにしたたかに折り合いをつけるのは(要は自主上映でなく大企業からの全国配給の道)選択として本当にあり得なかったのか。また、当時多くの広島市民が自身も深い傷を負いながら、そのトラウマと向き合って実際の出来事を忠実に演じた訳で、そのような方々らの決死の「伝えたい」切実な思いを計れば、映画をほぼなきものにするか、妥協点を見出して公の元に届けるかの究極の二択は、企画制作側として考えられなかっただろうか。
一方で遡れば大元である映画の原作となっている手記集も、実際には千人以上の子供達の手記から、編集者に選りすぐられて100程度に絞られ発行された訳で、その選から漏れた手記は果たしてどういった内容であったのか、その選定基準も私たちには知る由もない。学校の授業課題にされ、トラウマに苛まれ、思い出すにも吐きそうなほどの体験を原稿用紙にやっとの思いでしたためて、結果手記集の選から漏れた子供達は当時どう感じたのかも思い馳せる。勿論、学校側から課題として与えられても書かなかった、あるいは書けなかったであろうその他多くの子供達の無言の声も含め。
何れにせよ、私たち見る側はそもそもで事前に誰かに選ばれ、取捨選択された結果物を見るしかない立場な訳で、そうすれば、この映画が広く世間に公開されなかったのは誰の責任かを問うのはちょっと問題外で、確かに言える事は、広く配給されなかったことによって「見る事(あえて見ないことも含め)」や「見ることによって考える」側の、それこそ「自由」というものは、奪われてしまっているんじゃないかとも感じた。
出町座の映画館で上映された「ひろしま」。
観てきたばかりなので大きな衝撃と共にまだ心が揺らいでおり、感想を正確に書く自信は無い。
ただ、そんな中でもはっきりと、観たばかりだからこそ感じた率直な部分だけを書き記しておこうと思う。あとは、実際に関心のある人は是非、ご自身の目を通してみて欲しい。
まず、松竹が全国配給する条件として削除せよと言った、劇中セリフを伴うシーンの3つは、いずれも原爆当時から数年経った後の子供たちによるセリフだった。
確かに、これらシーンを削除するなら、物語の流れに組み込まれてもいるからセリフを変えて、シーンを撮り直す必要が生じただろう。が、あえて自分のような観客側の立場からすれば、これらのシーンを仮に削ったとしても、その他、劇中で多くの時間がさかれた原爆当時の再現シーンでその内容を補完する事は十分過ぎる程可能だとも私個人は感じた。また、松竹側が果たして、前年までのGHQによるプレスコードや世情に忖度したのが本当であれば、セリフ内容的に、時代が違うから分からんだろうと言われればそれまでだが、アメリカ側が激しく眉をひそめるような内容とも、そう思えなかった。(むしろ時代性を体感していない私からすれば、この映画内容を仮にセリフシーンを3つ分カットすれば、大手映画配給会社は当時配給を引き受けたんだと逆に驚く程、強く、生々しく、踏み込んだ内容だとすら感じた)。
ただ思うに、それらのセリフは確かに、この戦争についてどう思うか、どのような意思が働いてこうした悲劇が生まれたのかをある種直接的に言い放ってしまうような内容であり、企画制作側の勇み足や冷静さを欠いた焦りにも取れる、このままでは再び戦争になるのではないかという恐怖と反省を促す具体性を持った、強い揶揄やインパクト、イデオロギーを感じるセリフであるが、それは映画に言われずとも観る側にも、お願いだから自由に考える余地や余白を残して欲しいとも、私は思った。
また、これらのセリフが放たれるシーンはおおよそ、学校現場、あるいは教師を伴った場面における子供達の言葉として表現されており、加えて(これは企画制作が教職員組合だからそうなったんだろうけど)映画の前段、そして終盤にそうしたシーンを挟むことによって、中核を成す原爆投下時の地獄絵図や引き裂かれた家族の様子が鬼気迫って見事に表現されているのにも関わらず、ストーリーがぼやけてしまうというか、言いたいことをこちら側で考える前に言われてしまって、そうされる事で表現と想像の幅がいきなり狭くなり、先ほどまでのリアルさや、細かなドラマの数々が指す心象さえも、薄らいでしまうような感覚にもなった。
シニカルな見方をすれば、戦中は子供達に向けて戦争を美化することに加担し、大いに鼓舞させる教育を施した教育者が、戦争が終わったほんの数年後には、先の反省や後悔、懺悔の気持ちから成せたのかもしれないが、戦争は絶対にいけないものだと子供達に必死に言い聞かせている訳で(いや、直接的に言い聞かせるならまだしも、ストーリーを仕立てて子供らに印象的なセリフを代理で吐かせている訳で)、そのような存在を主役的に持ってきては、ダブルスタンダードと言うか、偽善的にも感じてしまう。それが主役どころか、そもそもの企画制作側の作り出したシナリオともなれば尚だ。
故に私個人の感想では、これら配給元から検閲がかけられそうになったシーンを仮に削っても、ほぼセリフらしいセリフの無い表情だけの演技という、戦中の教師役である月丘夢路が原爆投下直前まで子供達と軍需加担的な労働をし、その最中に被爆し、焼け野原と瓦礫の中を子供達を連れて必死に逃げ惑いながら、そのほとんどの人が入水ののちに亡くなったとされる太田川にて一人、また一人と子供達が月丘夢路の腕から外れて流され、やがて教師自身も川面に沈んでゆくシーンだけで、もう十二分に企画制作側の思い、つまりは教育者側として言わんとする事が表現されているとも感じた。
あと、個人的に細かいながらも気になる点としては、劇中終わり頃にチャップリンの映画「殺人狂時代」を取り上げているシーンがあるが、映画の中で映画を(それもかの有名なセリフを)そのまま語られると、それはなあ、と、思うところがあった。
「殺人狂時代」はまさしく戦中に構想が練られて戦後間も無く公開されたものだ。波風が収まってから作り始めたものとは違う。そして当時のアメリカに巻き起こったいわゆる赤狩りで、この映画内容によって決定的な思想レッテルを貼られて遂には国外追放された悲劇の喜劇王の話は言わずもがなだ。それを映画の中に含ませては、まるでこんな凄い人が、(我々と)同じくこんなことを言ってるんだと言わんばかりで、それでは結局は体制的権威主義に変わりなくて、それが仮に内容的には普遍的なんだからと主張されても、映画の中で表現として既にあって評価もされている映画をマウンティング的に使うべきか、私には強い違和感があった。時代背景的にチャップリン映画が上映されたことを示したいならば、ただ映画館のポスター風景をちらつかせてほのめかすだけでも、十分だったのでは無いだろうか。人の表現(言葉)を借りず、自分の表現(言葉)で表して下さいよ。と。
このわずかなシーンの表現の仕方で、体質がバレてしまって現実に引き戻されるような心地になるのかもしれない。見終わった後の正解の感想を、きっちり過ぎるほど求められているような居心地の窮屈さと言うか。
ともあれ、総じて思うところは、言いたい事を完全に言い切ってしまっているシーンを上下に挟んで、中盤では言いたいことは何一つ言っても無いながら、原爆投下直前直後の様子を淡々と描写した迫力あるシーンの差に、表現として、まるで違う制作者が作ったんじゃ無いかとこちらに思わせるほどの表現や色調の違いがあるように、私は感じた。
要はフィクションで通すのかノンフィクションで通すのか、ドキュメンタリーなのか再現ドラマなのか物語なのかががない交ぜになって、上手く調合されていないのである。ただ、その制作年を思えば、冷静で客観的視点で全体が見渡せられなかったのかも、しれないけれど。だからこその熱量とその凄みは確かに圧倒的ではある。これは間違いない。
しかしながら、観終わっても尚残るものとして。
瓦礫の中で子供達が「お母ちゃん」「お母ちゃん」と悲しく叫ぶ声。
まるでコンテンポラリーダンスを見ているかのような、月丘夢路と女生徒たちの逃げ惑う動き。
爆風で倒壊した家から必死ではい出す母親役の山田五十鈴の子供らを必死に探す姿と、放心ののちに死に絶える間際の、あの目。。。
原爆投下直前直後における、情景描写の数々。
多くの演者達は、その時、その時、何を思っただろう。
凄まじいまでの忠実描写で、それが成せたのは実際に被爆体験をした子供達や市民による決死の再現演技であるが故の迫る真実味であろうから、これらをじっと見つめて、私は自分の頭の中で、物事についてよくよく考えたいと思った。
もしも、関心を持たれた方がおられるなら、今、そこにあるうちに実際に見て、ご自身の中でそれぞれに感じてもらえたら。
夏の終わりを知らせる雨が、出かける最中に降り出して、映画を観終わって外に出たら止んでいた。
行き帰り、出町柳駅に向かう鴨川デルタ付近では、強い雨のせいで轟々とたくさんの泥水を下流に押し流している。
あの濁流の中でも、ただ攻めて争って結果流されるので無く、私はしなやかに生きる事が果たして出来るのか、そのすべを持つのかを振り返りたくなった。
とにかく、平和に暮らしたい。戦争は絶対に嫌だ。しかしそう固まって、うずくまるだけではきっと流されてしまうんだろう。どうすれば良いのか、共感を生み、諦めずに対話し続けるという努力はいかにすべきか。
相反する考えに対して拒否するだけの無策なエネルギーだったら私は要らない。
自分の頭を動かして、ちゃんと考えたい。