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he said, she said 京都市長選挙

 

私個人の思う京都人の真骨頂は「腹芸」にあった。

本当に思うところをやんわりすかして表現する、あの感じ。

加えて、仮に自分より位の高い、

あるいは好いてたはずの相手に対しても、

流儀に合わんとなると(しかしながら裏側で)

「いややわあ」「あきませんなあ」と

ピシャンとぶった斬る、あの感じ。

自分のように、よく言われる三代以上前どころか、

二代目でもはやドロップアウトしそうなアウトローからすると、

未だ身震いするこの「腹芸」も、

時にはやっぱり良いもんなんだって、今回つくづく感じた。

私はつい、思った事を表に出してしまう無粋な人間なので、

生粋の、地元を愛するほんまもんの京都人を、

どこかで羨望してたんだと過去形に思う。

 

のどかな日曜の、地元紙を始めとした新聞広告で、

がしかしそんな「らしからぬ」

現職陣営側の市長選挙広告がドカンと出た。

内容はあからさまで、

選挙で対立する陣営をピンポイント揶揄した、

怪文書的に撒かれたビラのようなもの。

いや、怪しげなビラとは違ってちゃんと綺麗にデザインされてるもんだから、

お金かかってるなあとか、本気なんだなあとか、

流行りのone teamまでコピーに使っちゃうんだなあ、とか。

そもそも京都って、

チームワークなんか得意やったっけ違和感もさることながら。

ともあれ本来お得意な筈の、気の利いた冗談嫌味とは程遠い、

建前無し。本音ならではのエグ味よ。

 

Twitterでは、擁護側が「相手側も普段やってる手法」

との声もちらほら。

確かに。政権批判に呼び捨て呼ばわり、

感情剥き出しキャラ化扱いも同様に酷い。

一方、今回の件で広告の賛同者として名前が挙げられた著名人には、

勝手に名前が使われたと声明を出された方も居る。

He said, she said.

海外ドラマや映画でちょくちょく耳にする台詞。言えば水掛け論。

しかし腹の中はドロドロに淀んでても、

振る舞いはエレガントにインテリを装ってた京都が私は好きだった。

いろんな思想、価値観、立場、地位、出自、国籍など混じり合っても、

うわべではそれなりに調和や和合を取る手法は、

うまく転べば民主的な街にも成り得た筈。

がしかし、

今や京都の未来はそんなにヤキが回ってるのかと悲しくなった。

 

貧すれば鈍するで開き直るか。

ボロは着てても心は錦で立ち振る舞うか。

週末は投票日。

でも。こんな虚脱作戦には乗りませんよ。

 

住民である限り、もちろん私は行くつもりです。


追記。2020年3月3日。

 

選挙の結果が出ました勝手観念的総括。

 

 割と最近、世間話の中から出てきた福祉系の仕事に従事してる友達の名言です。

「心が苦しい人は、何もかもの原因を自分じゃなく人のせいにする。そうすることで、無意識下の生存本能で自死から自分を守ってるんだ」と。その言葉を聞いた時、何でもかんでも人のせいと罵倒してばかりの、ありがちな周囲の人への重苦しいうんざり感が、ふと、消えた気持ちになりました。

 今、世間どころか世界中で席巻しているこうした風潮に対し、あるいは不満足な現状に対し、もしも私が悪い、私はダメな人間だ、私は無価値だと自分を責めてばかりいたら救われない。何より死んじゃダメだ。自分で死ぬくらいならちょっとくらい、今しんどいことは他人のせいにすれば良い。と。

 荒んだ言葉を羅列してあちこちで騒ぎ立てて煽る人、自分を省みずに他人を攻撃しまくる人を見かけても、きっとこの人は心が苦しくてたまらないんだ、と、出来るだけ思うことにしました。

 

 これも最近、たまたま見かけた過去記事からの名言です。

 かのゴーン氏から請われて日産の執行役副社長になった、マーケティングについて海外経験のある、星野リゾート社の奥様の対談話(日経ビジネス)からの引用です。

 「マーケッターは、商品を愛しちゃいけない」。話の筋はこうです。技術を誇る日産について、市場で実際にはどう思われているか、認知されているかを冷静に分析し、商品を売ろうとする時、自社商品に対して愛しすぎるとその現実や世間との乖離を見誤るんだと。ところが当時の日産の執行役員のふたを開けると作る側、愛する側のエンジニアサイドが圧倒的で、要するに自社に対する客観性が保てていなかった、という回顧録です。

 大変良いものなのにそれは何故売れないのか。何故広く世間に受け入れられないのか。その理由を探るのに自己愛というのは時に盲目になってしまう。仲間内で良い良い、と思い込んで褒めちぎっていても、それが実際には広く周知されないのには必ず理由がある。その理由を市場(世間)と照らし合わせた上で、内側からしっかり見据えましょう。と。

 これを社内でこんこんと説かれた、というお話に、なるほどなあと、深く考えさせられました。

 

 で。

 このお話の二つを融合して思うところは、痛ましい自虐レベルじゃない程度に、有機的な自己分析をして、現状と結果に対処して今後に繋げてみませんか?という提言です。お花畑の理想論ですすみません。

 今回の市長選ですが、流石に前回よりかは投票率を幾分か上げた、と言うことですが、それでも市民の有権者の50パーセント以上が、投票所に行きませんでした。つまり市民の半数以上が、どの候補者も選ばなかった、と言う事です。逆に言えば、市民の半数以下の限られた人間が選んだ結果の人が、今後全市民生活の運営を始めとしたトップに立つ、ことになる。

 こうした投票率の結果を受けてよく言われるのは、「有権者は民主主義の権利と義務を放棄している」をなぞった、極端な言葉を引っ張ってくると「投票を棄権した人」イコール「無関心で愚かな」愚民扱いです。

 今回の候補者それぞれは勿論ですが、特に破れた各陣営、今回自分は投票に行った、がしかし自分の思った人がトップにならなかったと悔しがる意識の高い人は、そんな悲しいことは言わないで欲しいです。

 当選した人も、落選した人も、それぞれ誰もが半数以上の市民にすら受け入れられなかった事を踏まえて、次に繋げるべくしっかり分析して欲しい。受かった人は、自分以外に投票した候補者の何が良かったのかを振り返って自らの政策を顧みて欲しいし、受からなかった人は、何が受け入れられなかったのかを真摯に考えて欲しい。何より、投票率が未だ低すぎる事を、手を挙げた人達はそれぞれ、自らしっかり反省すべきだと思います。結局は諸々、ついつい言い訳を並べ立てても、その背裏にあるのは自分の中にこそある敗因、だと思うんです。

 また、これらのうちのいずれかの人を応援した人も、それは私も含め、どうしても贔屓の人が受かって欲しかったのなら、その自身の発信力や発信方法に問題があった事、ひいては足を引っ張った可能性もある事を、まずは見返るべきだと思います。


まだ、半分以上の人が市場に溢れてる。

 そんな人たちの心根に思う事を汲めずして、やりたい事をやり通すのは民主的じゃない。

 あるいはそんな現状を嘆いたって、意思疎通のある社会作りなんて出来ない。

 

 選挙も終わりました。

 明日からはもう、それぞれ分断せず、線引きせず、いがみ合わずに居たい。

 小さい街なんですよ。嫌い、嫌われはやめましょうよ。そう思います。

 とにかく。今回の選挙での雑音は、いつにも増して辛かった。一方で、関心も普段よりは高まったのは良かった、と、そう思いたい。

谷口菜穂子写真事務所
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