今年最初の出張仕事は東京。せっかくなので寄り道ひとつ。
京都市立芸術大学の異なる学科の学生集団で1984年に構成された、メディアアーティスト集団「ダムタイプ」。
(実は言われているかしらの何々集団あるいはグループ、と言うのも、違和感が拭えない。カテゴライズがダムタイプはダムタイプだから。)
結成当時から現代に至るまでの作品群やパフォーマンスアーカイブが展示された「アクション+リフレクションズ」展を見るため、東京都現代美術館にやって来た。
彼らの活動初期から中心的人物だった古橋悌二(95年没)の頃と言えば、いわゆるバブル経済の最中にあっても今時の商業メディアアートとは対照で、右向けと言われれば左、いや、斜め!みたいな風潮が少なからず、京都のアートシーンではあったんじゃないかと思う。
コラボレーションやインスタレーション、コンテンポラリーダンス、アンビエントミュージック。。。など、それまで聞き慣れない用語と共に、様々な領域内で、アーティストの一人一人をとれば同等の気鋭さを誇るのではないか的な個人作家もたくさん居たけれど、そうした人たちが集団になって、例えばダムタイプのような頂点的お手本を持ってしても分断、分裂、亀裂、自然消滅するシーンを繰り返し見続けた時期でもあった。最も、ダムタイプ自体当初からそれぞれの作品でメンバーが変わる定型外だったが。
今回、何故どうして、ダムタイプはダムタイプであることが出来たのか、その一端を今にして分析し、当時は遠く、遠すぎてただただ羨望の存在をもって、ここにきて少しばかりは解析出来るような心地にもなった。加えて図録の解説に、彼らの行動に寄り添った人の回顧文があって、それを読むと尚、35年の謎が解けたような心地になった。
展示は、まるでパフォーマーが目の前にいない、セメタリーの持つ静けさに似たものがあった。
(ちなみに、作品群は携帯カメラでの記録はOKとのことだったが、自分にはとてもとても、写真に収めるのは恐れ多くて無理。2月16日まで開催中なので、是非、興味のある方は実体で体感して頂きたいです。)
この後に、本業の100パーセント商業系仕事に向かうなんて、自分はまったくどうかしてる。でも、今回の展示が東京で見れて本当に良かった。彼らの表現していたことが、今もって普遍であることも驚きをもって立ち尽くすような心地。恐らく、観客の多くが東側の美大系学生だと思われるが、彼らは今回これら西側の放った作品群を見て何を思うのだろう。
天気も良く、東京都現代美術館の光と陰のコントラストもただ美しかった。
さて。本当の出張目的の現場までは電車を使わず、あえて都営バスで。
窓の外には、どこもかしこもまあ、よくこれだけ似たような年代の新しい高層ビルがこんなにも建てられたものだと、改めて驚くオリンピック直前東京。
私は空もそうだけど、遠くてもいいから山が恋しくなった。
全然余談。
ただ、面白かったから覚えておきたい日常の一コマを。
行きの新幹線で、横浜から乗って来たママ友3人組に、それぞれ2人づつ、小学校に満たない子供らのグループ。席もないのでデッキで固まっていたんだけど、子供らはとても仲良しらしく、はしゃいでちょこちょこ動くから自動扉が閉まらず会話がシート側の車両まで漏れる。で、子供達があんまり騒がしいのにしびれを切らした一人のお母さん。
母「子供が話しかけ続けたら、大人はどうなると思う!?」とキレ気味に。
そこにすかさず
子「飽きる!」
母「疲れるの!」。
掛け合いリズムも良く、これが東京のノリツッコミなのかと面白かった。
どちらもなかなか秀逸な言葉選びである。ほこっとした。