絵本画家、アキノ・イサム展が大阪は枚方でこの日曜日まで開催中であると、友達に教えてもらったので行ってきた。
1968年作の絵本「プンクマインチャ」は確か、小さい頃に通っていた保育園の蔵書にあって、その独特な絵のタッチははっきり見覚えがある。そして会場にあった絵本をおそらく45年近くぶりに開いた時、登場する意地悪な継母というたったこれっぽっちのキーワードが、あれほど絵本に溢れていたと言うのに、私の家のセンシティブな放送コードに引っかかって買い与えられなかったんだな、と理解した。
言わんとすることはそこじゃない。素晴らしい絵本なのに。
秋野亥左牟(アキノイサム)さんは、実は私が卒業した高校の大先輩である。
これも、昨年終わりのNHK「日曜美術館」で特集が組まれた際、番組を観ておられたSNS繋がりの方から教えてもらって知った。高校では、昔の有名女優や俳優、文化人からジュリーまで、世間的にも分かりやすいスゴイ人たちが先輩に名を連ねていることは語り継がれてきたが、その中に秋野さんの名前を(少なくとも私は)これまで一度も聞いたことが無かった。
日本初の公立女学校の流れをくみ、戦後は民主化と共に男女共学となった我々の高校。もとは良家の、それも才女だけが通えた、今の価値観だけで言えば特権階級的な女学校(とは言え戦前の、女は良き妻良き母であればよい、勉強なんてもってのほかと言う時代からすれば、調べると実際はかなりフェミニズムな教育方針だったのだが)。戦後の教育改革を受けて思い切り、右から左と舵が切られてリベラルな校風へと、ただただメタボリックに背負い続けた。
使い古された校舎にはほんの遠く、かつての品格が微かに漂い、その他は正確な分析もされて来ず、もはや雰囲気と不確かな記憶だけが灰色に同化してくすんでいた。その後に続いた民主的な思想に基づいた自由な教育も形骸化されつつあった頃、2013年、それまで放置プレー状態だった校舎の全面改築と学校改革という名の元で教育行政側からいきなり刷新されようとした。これには老齢の、戦後育ちで占める同窓会組織が「名門校復活!」というフレーズに飛びつき、諸手を挙げて賛同した。それからと言うもの、いかに昔は国立大学進学者が多く居た優れた学校であったかを声高に語り出し、京都大学をはじめとした、一方では当時の激しい学生運動の予備軍でもあった筈の彼らの「汚点」は奥に潜めた。
歴史を語る時、その語り部が誰かによって、都合の良い所だけが抽出されるのはいつも興味深い。そしてその所為もあって益々、秋野さんのような当時、信念を持って戦い、裏切られて苦悩した卒業生の存在は、遠くに追いやられてしまったんだろうと理解する。
私は、自身の中の信念を早々に曲げられない不器用な人にどうしても目が留まる。
そしてその信念が時に足かせになって歩みが鈍くなろうとも、かつ、信じたものにことごとく裏切られようとも、思想の矛盾を解き明かしつつも恨みつらみは決して吐かず、常に自分に向き合い、理解し、生きるもの全てを愛そうとし、一切を諦めずに作品を作り続けようとする姿勢を持った人に共感し、また強く惹かれる。
それはとても、厄介であっても人間臭いから。
そんな風に、憧れる人の存在を常においていたいのは私は、ふとすると軸がぶれそうになるとても弱い人間だからだ。
遠く先を考えれば非常に重要なはずの物事の有る無しが決められる時に、最もらしい大義名分が体制側から声高に掲げられ、そのムードだけで大勢が賛同するような状況に出会った時、私はとても天邪鬼な人間だからつい、それは本当なのかと疑問を持ってしまう癖がある。特に、自然災害や社会情勢等、世の中が不安を持ってナーバスになっている所を、更に感情を煽って物事を推し進めようとする際の冷静さに欠いた盲目な「変化」には、敏感で居たいと思ってしまう。
おかしいものはおかしいと言いたい。しかしそれを言うならちゃんと理解し、しっかり物事を判断出来る材料を用意しよう。遠くの問題をなんとなく憂うのは簡単だが、自分の身近で細やかなことを取り組むのはむしろ難しい。だからこそ。そう、思って始めたのが、2013年から始めた旧高校校舎の活用に向けた訴えだった。観念的な動機はそうとして、直接的な動機を言い極めれば、普段から歴史的建造物が好きであった所に、関わりのあった建物で、かつ個人的にも、客観的にも知られていない事が多すぎる歴史的資料を潰してしまっては、その後しっかりと全体を読み取ろうにも取り返しがつかないことになる、と、思っての事だった。そんな微弱かつ本来的には苦手だからこそやってみた行動が、人から活動家とか、市民運動とか言われて面食らったりもした。
結局、言い出しっぺの責任として、気づけば在校期間よりも長い約5年、校舎及びそれに付随する実際の様々な問題に関わることになってしまった。その間、たくさんの貴重な経験や温かな人にも出会った恩義を越えて、浴びせられた誹謗中傷の数々もさることながら、本来的には近しいはずの人たちの肩すかしや梯子外しにほとほと疲れ切ってしまい、そもそもで母校愛から始めた訳じゃ無かったのも重なり、結果の諸々を迎えた後はもう、本来の自分のなすべきことに立ち返ろうと、高校に関わる何もかもを遠ざけたい心情に陥ってしまった。
がしかし振り返れば、あの高校を卒業した人には何故だか、語られないながらも知る人ぞ知る、多様なジャンルでシブく活躍する人が実は多い。そうした方々との出会いや発見は、とても貴重だったと今でもこれだけはっきり思える。そして中でも、芸術系学校では全く無かったのに、その広義なジャンルで活躍する人がこれまた異様に多いのはとても不思議だ。そして今回はまた、あまりにも遅ればせながらあの学校の歩んだ複雑な転換期とその時代を体現した先輩の存在を知る事が出来た。
秋野さんが晩年を過ごしたアトリエは、兵庫県に今もギャラリーとしてあるそうだ。そして戦前、戦後の転換に多感期を過ごし、苦悩した青年に光の扉を開けてみせた、母親である画家・秋野不矩の美術館が彼女の郷里である静岡県にあるらしい。ちなみに、建築は藤森照信氏によるものだそう。
今回の小さな展覧会では、絵本原画などを実際に見れた事も感動したが、生前、作家活動と並行し、旅する中でかつて自身の信じた思想による、中国の文化大革命にて破壊と散在の限りを尽くした貴重な歴史的文化財を守る地道な活動もされていたと知ったのは、私にとって心の収穫だった。
また、何かで心に迷いが生じそうになっても、行きたい場所、会いたい人があるこの世の中の希望に、深く感謝したい。
日曜美術館での放送内容ブログ
秋野亥左牟ブログサイト
http://isamuakino.com/wordpress/
公式サイト
浜松市秋野不矩美術館(現在設備改修工事で閉館中)