家から歩いた、とは言えない距離にある東福寺塔頭・光明院。
波心庭と銘打つ重森三玲の庭を囲んだ寺で、複数の知人、友人がSNSで挙げていた日本画家の個展が開催されていると言うので行ってみた。
稲荷山の斜面に建つ山門は、逆光の早朝か、西日が伸びだす頃からが私はこのお寺を訪れるのが好きだ。
寺の庭のゴツゴツとした石群と作品が呼応するかのように、互いに強く打ったり、控えめに囁いたりして、全体の調和がとても素晴らしかった。
これぞ実際にその場に足を運ばなくてはならない必然。
昨今の数多ある、苦肉の策のオンライン展覧会や、ネット上の紹介写真や動画などで、本質の一体何が伝わるだろう。
勿論、ここに挙げる私の写真も含め。
この一年。
仕事を必死にこなし、それ以外には出来るだけ観たり、聴いたり、感じたりするのを避けてきた。
必要最低限の動作に終始し、感性を育み養う心を溝に捨ててきた事を振り返り、若く、そして強い意思の作者の姿勢にはとても心打たれた。それはとても衝撃だった。
死んでからいくらでも出来ること。生きてるからこそ出来ること。
無駄を問う無駄を繰り返す。生きるって、そういうことなんじゃ無いだろうか。
以下。作者個展DMより引用。
日本画家・丹羽優太
鯰の巧妙(一部)2月11日~
鮎の光明(二部)4月2日~4月18日
「月かげは 入る山の端も つらかりき たえぬひかりを みるよしもがな」
これは方丈記の最後に書かれた句。
俗世から離れ、一人下鴨で過ごした鴨長明は最後にこの句で、
永遠の光は手に入らないのだろうかと詠んだ。
方丈記は災害や疫病が頻繁に起きた時代の空気感を淡々と伝えるもので、
そのリアリティーはどこかいまの時代にも通ずるところがあるように思う。
近年も当時と同じく、多くの災害が猛威を振るい、いまも疫病が収まる気配はない。
見えないものの恐怖は、人々の頭の中で大きくなり、時代に大きくのしかかる。
こんな時代にはいつも黒い何かが現れる。
鯰や大山椒魚など、身近にいる黒く大きな生き物が災害や疫病の原因とされ、
絵や言葉で脈々と現代にまで伝わってきている。
彼らはなぜ現れ、何を伝えたいのか。
警告なのか、戸惑う人々を嘲笑っているのか。
はたまた、人々が苦難を乗り越えるための希望なのか。
月影が山からまた顔を出し世界を照らすように、暗い時代の救いであることを切に願う。
作者サイトリンク
※DMに寄せられたコンセプト文も心打ちましたので、勝手ながら全文引用させて頂きました。
作者及び関係者の皆様にはお詫びと感謝を申し上げます。