8月11日のテレビ新広島の取材記事リンクを教えて頂いた。
記事内容を要約すると、広島における原爆関連施設には、その名称の殆どに「平和」と冠せられているにも関わらず、元は広島県産業推奨館と言う名で、原爆によって廃墟となった建物は何故「原爆ドーム」と呼ばれるようになったのか、それはいつからなのか、と言う丁寧な取材内容である。
(↑以下に続くのは私の個人感想ないまぜの長文駄文なので、是非、先ずは記事元を読んで欲しい)
取材を重ねるうち、少なくとも原爆投下から3年後の1948年頃には、地元の人たちから自然発生的に「原爆ドーム」と呼ばれていたものの、その後の1950年には中国新聞では「原爆ドーム」、かたや同年発行の復興大広島市地図には「平和記念ドーム」と記載されているのを確認する。
「平和記念」と「原爆」。これは意味合いがまるで違う。何故、こんな事が起こったのだろう。
その背景を知るべく、終戦後の翌月から7年間に渡って、アメリカを始めとする連合国軍による占領下の広島を始め、日本国内における悲痛な事情も語られている。
今日もテレビの全国中継で見られる、毎年開催される8月6日の通称「広島平和記念式典」の始まりは、原爆投下から2年後の1947年、「広島平和祭」と銘打って、連合国軍の占領下の元で第一回目が行われた。
記事に添付されている写真を見るに、足組み腕組みされている連合国軍の主賓らを背中に、当時の市長(自らも被曝者)は
「8月6日は世界平和を招来せしめる機縁を作った」
と、読み上げた。
式典翌日の平和祭を報じる全国紙の朝日新聞には、マッカーサー連合軍司令官による日本人に向けたメッセージが添えられ
「広島の教訓を生かせ」
と、その言葉を引用したキャッチコピーが打たれていた。壊滅的な打撃を与えた側の人間が、その教訓を被害者側に生かせと言うんだから、マフィアもびっくりの恫喝、これ以上の高圧的な物言いは無いだろう。
掲載新聞社には、どうか、監禁され脅される中を震えながら原稿を打たざるを得なかったんですよね、と想像したくもなる。
終戦の翌月には、占領政策の一環としてプレスコードが発令され、新聞や出版、放送など、あらゆる記述や表現が監視され、不都合な表現を徹底的に取締り削除し、原爆投下の正当性を誇示すべく、アメリカが日本国内であらゆる手段を講じたのは勿論、私も知識としては多少なり知ってはいた。
その効果は、例えば我々世代よりおよそ二回り越えの、特に終戦間際から戦後間も無く生まれた世代の方らで、憧れの国として、あるいは特に芸能文化面で熱烈なアメリカファンの人達が相当数居るのを皮膚感覚で普段から知っているから、子供の頃に戦後教育を受けた世代かつ「平和ボケ」世代と上から揶揄される人間にしてみれば、「当時をリアルで知らない我々世代がアメリカが発信するものになんでも熱狂するのはともかく、言っても傷跡も生々しかった筈の戦中戦後の人達が、何故にどうしてこんなにもアメリカの事が好きになれたんだろう」と言う疑問も含め、これも当時の占領政策効果なのかなと漠然と推察していた次第である。
ましてや原爆死没者慰霊碑に対し、
「安らかに眠ってください 過ちは二度と繰り返しませぬから」
と、直接加害者では無い、同じく被害者である筈の側が、誰が誤ったからこうなったのか、一体こうなるまでの過ちとはなんだったのか、責任の所在は一体どこにあるのか等、その主語も具体的内容も無い、しかしながら非常に達観した普遍の言葉を捧げる事が出来たのは何故か。
(※この碑文に対する現在における広島市の公式見解はリンク参照の事⇨https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/kaitou/8239.html)
戦後僅か数年でこれほどの精神性に導くなんて、新たに支配し施術した側と言うのがあるとすれば、スポーツマンシップよろしく試合終了後は気持ちを切り替え対戦相手同士で労い握手とハグ、どころかの大実験の大大成功という事なのか。
果たして、戦争中の、耐えがたいほどの苦悩と苦痛から解放され、それらを解放したのはアメリカを始めとした国々だったんですよ、と言われる新たなプロパガンダが本当に日本人の心の奥底まで浸透したのかは分からないが、黒が白、白が黒になるほど全てが一変した事に心から安堵した、それほど戦争が辛かったのだと想像するしか、その後の私たちにはすべが無い。
そしてある言葉が生まれて後、時を経てその言葉の意味が熟考され、解釈され、昇華されてきての今があるのかもしれない。
ともあれ、そんな占領下の7年間には「広島」も「長崎」も、原爆とその被害状況どころか「原爆」と言う単語すらも全国には行き渡ることが無く、よってその全貌を日本中の人がまるで知らなかった。いや、知らなかったどころか、徹底的な「原爆投下によって平和がもたらされた」との原爆肯定論を(未だアメリカ国内ではそうとされているらしいが)、被曝国である日本国内において浸透させられていた訳である。
つまり受けた傷は、その傷を与えた側、そしてそれに従わざるを得なかった側による忖度で、痛みや苦しみや悲しみどころか、被害の事実すら語られる事なく、「平和」の文字によってすり替えられ封印されたのだ。
今もって時折と言うか常に、日本国憲法第九条のあり方議論となると、「あれは当時のアメリカの押しつけ憲法だ」「平和を希求するための普遍的なものだから変えるべきでない」などと、結局はグズグズの議論になって次の答えを見失うけれど、少なからず、この取材記事において記されている、広島における様々な原爆被害を後世に伝える公共施設や式典などの名前に冠せられた「平和」の文字は、当時の占領下における複雑な背景の元に刻印された名前でもあったのだと知ると、なんとも言えない気持ちになった。つまり私たちが子供の頃などの修学旅行や研修旅行で度々訪れた広島や長崎において、「平和」と冠された記念的な場所にして、そこには被曝され亡くなられた無数の方々と、遺された方々らが口を閉じざるを得なかった戦後の苦悩や喪失の日々に、寄り添うどころかまさか、知ることすら無かった上で「平和」「平和」とただ考えも無く呼んでいたのを振り返ると苦しくなった。
7年に渡る占領がやっと解かれた後は、せきをきったように原爆被害を伝える記事やグラフ誌、映画などによって日本国内で大きく報じられるようになり、ようやく、日本国民はその被害の全貌を知ることになる。
その翌年の平和記念式典では、前述の市長による宣言文で、
「一個の原子爆弾が残した罪悪の痕は、今なお、消えるべくもなく続いている」
と、「原爆」の単語と共に世界に向けて初めて、原爆投下という行為を非難した。
そして。同年発行の地図から、平和記念ドームは「原爆ドーム」と記されるようになった。
これが、今も私たちの眼前にその痛ましい戦争の悲惨さを伝えてくれる戦争遺構の名前が辿った経緯である。
記事を振り返って、たったの76年の歴史ですら、知らなかった事、今更考えさせられる事が山ほどあると知る。がしかし日頃はついつい、ほんの数年の世間の動向や国内の問題ごとや身近なアクシデントに振り回されて、なんて嘆かわしい、生きづらい世の中だと言うもの諦めるほど、疲弊してしまっている。
でも、私はやっぱり、残念な「平和ボケ」世代だから、ついぞ近年を振り返って比較すると、言い方的に間違ってるかもしれないが、楽天的な気持ちさえ浮かんでしまうのだ。
真実を公正中立に報道しないマスコミと揶揄される昨今の風潮にも、大丈夫、そんなのは全然、今に始まった事じゃ無い。その時代背景によって右向け右、左向け左と、どこの新聞社ももれなく戦中は自国の戦意高揚政策の、敗戦後の占領下には占領軍のプロパガンダの役割を担っていたし、むしろ今の方がまだギリギリ、嘘も誠もグレーも誇張も、あらゆる方面からの情報を手繰り寄せれば自分の中で均整を取ることだって、出来る、と言えば出来る。
わずか数年足らずで、発する言葉の意味を真逆に変えてしまうような、あるいは凝り固まった考えの、または利権まみれの政治家だって、私には責めようもない。日本の成人男子には一部を除いて僅か100年足らず、日本の成人女子に至っては戦後から選挙権を得たと言う極めて短い歴史にも関わらず、そしてここに至るまでその権利を得るためにどれだけ先人らが参政権運動を起こしたのかも顧みず、もう既に全国各地の様々な選挙において投票率が半数を超えない事が当たり前。そんな半数以下の国民で選んだ、しかもその全員の投票数で勝ち上がった訳でも無い政治家による政治の元で文句は言いながらも結局は全体でなんとなく従い、民主主義の根幹を自分たち自身で放棄しているにも関わらず、他国の全体主義や独裁主義にだけは厳しい批判的立場に居る。
そしてこれらの権利を早々に放棄した人に対して、例えばほんの身近な友人らに対しても、関心の無さそうな人に対しては全く口をつぐみ、積極的に前向きに、取り組みを働きかける、響く言葉さえ見つからないのが不甲斐ない、下手をすれば憂いだり、憤ったりで終わっている。それが私。
乏しい情報の刷り込みにめっぽう弱く、空気という圧力には敏感に反応して忖度を続けているのは、こんな肥沃な時代においてもそうなのだから、私こそどうしようもなく軟弱なのだ。
いやしかし戦後76年。その間の歴史的事実を振り返ると、実際には相当酷いものだった。戦争が一応なり終わったと言えるのは日本だけで、世界中を見渡せばあちこちで戦争は続いている。また、各国の印象的な歴史的事件の数々も、ここ数十年来と比較してもとびきりスケールが違う。おおよそ総じて、規模も内容もなんとか縮小傾向にもある、とも言えるのか。
今回のブログテーマにだけ絞って話を紐づけるなら、例えば、戦後における核実験(1945年から96年まで)はアメリカが1000回以上、旧ソ連(ロシア)が700回以上、イギリスが40回以上、フランスが200回以上、中国が40回以上。。。と、主に大国と呼ばれる国々は驚くべき数の核実験を自国内や他国で行ってきた。
中でも、実験という名の元で市井の人々を巻き込んだ、いわゆる冷戦時代の一例を挙げると、アメリカによるマーシャル諸島での67回の核実験は1946年から58年のこと。島民は無人島に強制移住されられたが、54年の水爆実験では遠洋漁業でこの海域に居た日本の第五福竜丸は船員全員が被爆。それだけで無く、この海域には当時他の漁船も数百隻あって、被爆者は2万人を超えたとされる。
実験が終わり、その後除染作業で出た「核の棺」と呼ばれるコンクリートで覆った放射性廃棄物の詰まった建造物は今、深刻な劣化の危機に晒されている。加えて島々の土壌には現在も、1986年のチェルノブイリ原発事故後周辺や、2011年の福島原発事故の現場周辺よりもはるかに高い放射線量が60年以上経っても今だ検出されているそうだ(アメリカCNNによる記事を参照したので少なくとも敵対国による穿ったデータでは無いだろう⇨https://www.cnn.co.jp/world/35140065.html)。
アメリカに次いで実験数の多いソ連はどうだろう。旧ソ連による1949年から89年におけるカザフスタン共和国内の核実験場では、40年間でなんと400回以上の核実験が行われた。この数は世界の核実験全体の1/4相当とされ、その間、約20万人の住民が直接的に放射能の影響を受け続け、現在に至るも周辺村民は後遺症に苦しみ、産まれてくる新たな命さえ、深刻な被害が継続されている。
一体、これらの事実のどこを探せば「平和」の文字は見出せるだろう。
犠牲を前提とした、誰かの側だけの平和なんて、そんなものはありえない。
例えばこうした、これまでの散々な大国による、地球環境、あるいは地球上の生命全てへの破壊行為の後の、しれっと「SDGs」(持続可能な開発目標)などと言われる昨今において、地球上最大のゴミを手放そうとしないそれぞれの国に生きながら、あるいは容認しながら、森林破壊をやめよう、海洋汚染を食い止めよう、プラスチックゴミ袋やカフェのストローを無くそう、ガソリン車から電気自動車に乗り換えよう、そうだそうだ。。。なんて、小さな努力を積み重ねようとする可愛らしい現代の私たちは、なんと随分マシになった、やっぱり世の中はこんなことが訴えられるような平和が訪れたと言うべきなのだろうか。
ともすると「核兵器」という言葉が出た瞬間に、地球上の極めて卑劣で悪質で有害なゴミという認識から外れて政治的関心ごとや駆け引きの道具だけに区分されるのは不思議だ。そんな、各々の思想信条を語ることに常アレルギー反応を起こす多くの人にこそ、冷静に、普通に、捉えてもらいたい。
私たち人間どころか、地球上のあらゆる生命を、今あるものだけで終わらず、何度でも、未来永劫に渡って奪い続ける事が出来る。
空に、海に、土に、細胞に滞留し、蝕み続ける。それが、核兵器。
経緯と現状。主な核軍縮に向けた条約など~
1968年 核不拡散条約(核軍縮と交渉義務と原子力の平和利用)発効。
1996年 包括的核実験禁止条約(宇宙、大気圏内、水中、地下などでの核実験や他の核爆発を禁止)未発効。
2010年 米露の核弾頭やミサイル保有数を制限。二国間で合意。21年2月期限切れ。
2017年 核兵器禁止条約(核兵器の開発、実験、生産、使用や威嚇禁止)84か国・地域が署名。
2021年 核兵器禁止条約(核兵器の保有や使用を全面的に禁じるもの)
先と同様、核兵器保有国のアメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアは参加せず。
またアメリカによる「核の傘」に守られている韓国と被爆国・日本もこの条約に署名してはいない。
上記の核軍縮に向けた条約の経緯に見られる通り、世界中には、抑止力として必要と主張する国にとっては今だ最大かつ最重要な武器、逆にそんな論理は認めないとする国にとってはただただ持続的社会への脅威でしかない核兵器。
いずれにせよ、使用すれば確実に地球上全ての生命を軒並み何度でも消し去ることの出来る核兵器は、多少の減少傾向を辿りつつも手放せないものとしてこの地球上に存在しているのが現状だ。
参考グラフ→https://www.asahi.com/special/nuclear_peace/change/
つくづく、戦後生まれの私たちは過去のあらゆる負の遺産を背負って、じわじわとその荷重が身体中に効いてくるのを感じながら生きているのだと思う。自分たちがまだ存在すらしなかった遠い昔に行われていた事が、今だ堆積し、そして常にその脅威に脅かされている。そしてそれらを意識しながら、あるいは無意識下で生きていくしか、私たちは無い。
だが、だからこそ。そんな負担を出来るだけ、次の世代、次の地球の将来に対して、重みを知っているからこそ少しでも無くしていきたい。
私は、あの広島の「原爆ドーム」が、「平和記念ドーム」と人々の中で呼ばれ続ける事が無かったことにまずは心から安堵する。
「破壊する事でもたらされた平和を記念する」象徴としての建物であり続けるなんて、それはあんまり過ぎる。原爆投下を肯定するなんて、とてもじゃないけど出来ない。
「原爆ドーム」は「原爆ドーム」。
投下位置が目視出来る快晴の日。1945年8月6日の朝8時15分。川面に映えるモダンな広島県産業奨励館から南東僅か160メートル、上空600メートルというほぼ真上の位置にたった一つの原子爆弾が投下され炸裂。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速440メートル、地表温度は3000度を超え、辺りを一瞬のうちに大破させ、焼き尽くし、建物内に居た全ての人は即死、当時の広島市の推定人口35万人の内、9万人から16万人以上が被爆後2〜4ヶ月のうちに亡くなった。そして今も、その影に脅かされている方々が居る。
原爆ドームはまさにその証。
当初は解体案も浮上しており、1948年(昭和23年)の夕刊ひろしま という地元紙では、「自分のアバタ面を世界に誇示し、同情を引こうとする貧乏根性を、広島市民はもはや精算しなければいけない」などと書き立てる記事もあったらしいが、残るべくして残され、今や世界遺産にも登録されている。
正式名称は「広島平和記念碑」。しかし今や誰もが原爆ドームと呼ぶ。
その呼び名は自然発生的なものだった。名称募集や命名式典のような仰々しいイベント上でも無く、市民運動によってもたらされた名前でも無く、つまりなんの思惑も、いかなる政治的イデオロギーにも染められていない。そんな原爆ドームは、今も在り続けて私たちにくさびを打ち続けてくれている。
その存在と全ての経緯を振り返って思う時、人間社会がこの地球上で果たすべき将来への責任とは何か、本当の意味の持続、再生とは何か、その本質を問いかけているように、私は思う。盲信や熱狂が静まり、時間の堆積を経て、様々な世代が交わり冷静に考える。客観的に検証を重ねる。理解を深め合う。つまり私たちにはゆるやかな時間が必要だ。その時間を、誰からも奪ってはならない。
2021年8月15日。終戦記念日によせて。日本は静かなお盆の最中。