1月半ばから1ヶ月弱。
長野から始まり静岡→東京→北海道→東京→鹿児島&宮崎と移動した遠出出張ものが無事に完了した。
ひと月でこれだけの都道府県を跨ぐ経験は多分、15年くらい前の数年間頂いていた全国展開のリゾートホテル様の仕事以来。いや、その頃を凌ぐ移動距離と回数で、あれから変わったことは何と言えば自分が歳を取った事(笑)。当時はまだ若かったので元気だったが一方で生真面目に納品を急いで仕事以外の寄り道は全くしなかったなと振り返る。近年あれから随分人間が太々しくなったので、遠出出張となれば納品の要領も良く、せっかく遠くまで来たんだからと許される範囲で寄り道に地方物産おたくっぷりを発揮するようになった。が。流石の疫病中にてよそ見も最小限、そして我が身の体力も限界、情報処理能力も低下して、見たもの、触れたもの、匂いだもの、聞いた事、食べたもの、飲んだもの、、、感動と発見の嵐にどんどん上書き保存ならぬ消去されていきそうで勿体無さの極地だった。
ともあれ、昨今のようなややこしい時世の中をお声がけ頂き、また貴重な経験をさせて頂いたクライアント様、このような状況の中にも苦心してお心遣い頂いた皆様に心から感謝を。そして、事故も無く病気にもならず、つまり人様にご迷惑も掛けず、何事も無事に帰路につかせてくれただろうご先祖様と神様にも感謝を。
本当に、ありがとうございました。
以下、あまりにも断片的にではありますが、旅の備忘録を。
長野&静岡
長野県は浅間山の麓にあるクラフトビールの醸造所へ。
個性的なフェイスの商品を打ち出すクラフトビールの会社は社風もとてもユニーク、というか実はそれこそが自然体の組織のあり方を形成していた。本部空間は一切の仕切りが無く、社員の役職も存在しない。新商品の開発チームは上からの指示で選ばれるので無くやりたい人の立候補で成立する。あちこちで年齢の垣根なくディスカッションが普通に行われている。ちなみに、新入社員が一番に取り組むことはビール製造の案内を一般見学者に向けてツアコンを担う事。これで自社の商品についてその後いかなる部署に所属しようと製造工程のつぶさまで語れる人になる。顧客との関わりが極めて近い。その近さを保つべくあらゆる努力がなされている。。。
という理想の形がウソで無く実現実行されていることに驚きの連続と共に感動した。
あれこれ衝動のままに車を走らせ、翌日の目的地の静岡は富士御殿場まで。
あたりはすっかり真っ暗で、流石に移動距離にも疲れてホテルの側の海鮮屋で適当にご飯を食べて大風呂に入って寝落ち。
で、朝一番に部屋のカーテンをざっと開けたら、飛び込んできたのは視界いっぱいの富士山だった!
それからはもう、コンビニに行こうがファミレスに寄ろうがガソリンスタンドで給油しようが、どこもかしこも富士山が見える。こんな、特に関西の人間にとっては遠くて憧れる存在、東京行きの新幹線で遠くに見える富士山にスマホを向けてきたのが恥ずかしいほどどこでも富士山。
撮影現場に早く着くと、蒸留所の新設された玄関アプローチオブジェを施工担当された地元の方がいらして話しかけた。日常の真ん中に富士山があるなんて、すごい事ですね、と。
あまりに存在が毎日過ぎてなんとも思わないのかと思いきや、「地元の人間には、それぞれにどこから見る富士山が好きっていう、『マイ富士』があるんですよ」とニッコリされる。良いなあ。日本にあって、これ以上の自慢があるだろうか。そして、この蒸留所こそ、まさに名実ともに富士山の伏流水にて作られる酒の誕生するところだ。
東京
ひと月で2回の東京。
美術館などの展覧会にも、近代建築の見学もせぬまま、仕事だけで終わらせる東京出張って、多分初めてかもしれない。
ひとつは料理レシピの動画制作会社への取材。ビール会社本社取材。そしてワインソムリエの取材、フリーアナウンサーさんの取材。
つくづく思う。やっぱりこんな大都会で名を成す人や組織には、無駄が無い。努力の持続性が凄まじい。だのに人当たりが優しい。。。
写真はお連れ頂いた、東京新橋の高架下にある、アサヒスーパードライ生を日本一美味しく提供するお店にて。
まるでバリスタのように美しく、真剣勝負の眼差しでサーバーから供される生ビール。最後はグラスごと氷水の入ったバケツにチャポンと漬けて。「作りたてのビールの味をできる限りそのままの味でお客様にお出ししたいんです」と店主。こんなに美味しいアサヒスーパードライを飲んだのは初めてだった。
ああしかし自分はこんな風に、一つの対象に対して、とことん真面目に真摯に取り組んだことって果たしてあるだろうか。それも毎日。毎日。
北海道
朝一番の飛行機で北海道へ。
飛び立ったJALの今月の機内誌特集は「シカゴブルース」。その歴史を紐解きながら、代表的なライブハウスやミュージシャンが紹介されており、そこには2017年に日本人初で殿堂入りを果たされた、我が高校の大先輩でブルースピアニスト・有吉須美人さんも写真入りで紹介されていた。凱旋ライブでの圧倒的な音圧に、高校校舎保存活用運動の際には先輩として、見知らぬ私のインタビューも快く受けて下さった事を思い出す。うわあ!改めて凄い人なんだ。。。と恐れ多く、何度も記事を読み返している内、眼下には真っ白の北海道が広がっていた。
電車とバスを乗り継いで、目的地であるジャパニーズウイスキーの父・竹鶴さんが開拓したウィスキー蒸溜所へ。
元トップブレンダーさんのインタビューでの取材質問の中で、「(蒸留者として名誉な賞を受賞されて以降)何か変わったことはありましたか?」との問いに対して、「あの賞は私にで無く、関わったみんなが貰ったものですから」と前置きされた上で、茶目っ気たっぷりに、「まあしいて言うなら、その一報をどこかで知った、何十年も交流の無かった幼なじみから連絡があった事ですかね」と微笑まれた。
我々側は未だ常に、人を頼りに生きている側である。
所内に移築されている、竹鶴夫妻の住まわれた住居内にて。
蒸留所内の歴史的建物は全て設計者や建築家が不明だそうだが、いずれも素晴らしいものだった。ちなみに邸宅内は普段より一般には非公開。内部はまるでタイムカプセルのように、夫妻の生活雑貨や調度品、洋服など実際のものが時が止まったように留められていた。
お連れ頂いた札幌は薄野の忘れがたいお店二つ。
ひとつはお姉さん二人がカウンター越しに供してくれる絶品ジンギスカンのお店。もうひとつはオールドウィスキー専門のバー。
鹿児島&宮崎
遠出出張最後は、およそ3年近くぶりの鹿児島方面。
前乗りでクライアントとは現地集合という事で、出掛けはすっぴんにサングラスと充電10%気分もさることながら、例え墓参りが叶わなくとも親の故郷に行ける、桜島も拝めるだろうと思うだけで心が軽い。
家の最寄駅で見知らぬおじいさんが改札口で困っていたので行き先まで案内してあげる。途中、話すと明らかにおじいさんのイントネーションは鹿児島弁。「これから鹿児島へ行くんですよ」と言ったら嬉しそうだった。
鹿児島のイントネーションは時々関西で出会すことがあるがその度に心が解ける。特に年寄りのそれはなんとも言えない郷愁を誘う。その昔、郷里での父親と大叔母の会話が全く分からず、けれど子守唄みたいに丸くて柔らかで、縁側の西日に居眠ったあの頃に引き戻されるのだ。
もう、鹿児島が始まっている。
鹿児島中央駅に着いてそこからはレンタカーで現地へ。着いた頃には志布志湾は日が暮れた直後だった。
翌日、鹿児島と宮崎の焼酎蔵を2軒撮影。
「せっかく遠くまでお越しくださったんだから」と、取材案件に全く関連しない野生馬達の居る地元名所「都井岬」へご案内下さる。
ああもうちょっと時間があったらな、もうちょっと天気が良かったらな、今が春の花さく頃、新緑の美しい頃だったらな、というかプライベートだったらな。。。と惜しさ満開(苦笑)。
しかしまあ、旅というのはこういうものかもしれない。次へ繰り越し。そして人生の課題はこうやって増えていくしキリが無いんだな。。。
そう、言い聞かせながら慌てて帰路に着いた。