明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家・山元春挙(明治四年〜昭和八年)の別邸が滋賀県大津市にあると聞いた。
加えて、普段は要予約でしか公開されていないところを、生誕150年記念にかけて、滋賀県立美術館で回顧展が開催されているのに合わせて予約無しで公開されていると知り、急いで出かけることにした。
改めて地図で確認すると、琵琶湖を片側に走る湖岸通りの西岸に位置する山元春挙の別邸「蘆花浅水荘(ろかせんすいそう)」は、これまでもう数えきれない位、仕事に、レジャーに車で通ってきた場所にある。ここのところ県内で見る見るうちに増えた高層マンションと宗教団体施設にガッチリ挟まれ、今までお恥ずかしながら全く気付きもしなかったのだが、同じく近く大津市内にある「住友活機園」と言う、元住友財閥二代総理事の引退後の邸宅と共に県内でわずか2例の内の一つに数えられる、近代和風建築で重要文化財指定を受けた建物及び庭園である。
琵琶湖に向かう建屋の眼前に広がる庭園は、琵琶湖とその周辺の山々を借景にして、かつて敷地は琵琶湖と直接繋がっていたそうだ。そして、風流にも船着場があり、今では埋め立てられて道路で分断されているが昔は琵琶湖へ直接船を出すことが出来た。
広間から望む庭園からその向こうはなだらかに高低差があって、芝生や木々が、かつての琵琶湖の長閑な風景と延長線上に繋がっていたのは今でも容易に想像出来る。
往来のひっきりなしの通りすがるタイヤの音に、隣接する、高さもさることながら流石になんとかならなかったのか周囲の景観など全く考慮されていない、和の情緒などとはかけ離れた両サイドの建物群の存在にはふいと現実に引き戻されそうになるが、それでも1000平方メートル越えの敷地と圧倒的な建物の存在には、見たく無いものは見えなくするだけの力と魅力がある。
ちなみに、隣接のマンション分譲の当初の売り出し文句は、この庭園がバルコニーから借景に見える事を堂々と謳っていたらしい。せめて、購入後は庭園のボランティア草引きをやるのがマストという注釈ありならまだしも、そんな訳は無い。まあまあ良いアイデアだと思うけどなあ。
最近あまり聞かなくなったがマンションポエムなる皮肉も、いくらなんでも他人のふんどし感が否めないのは私だけだろうか。
かつての主人である山元春挙は、こちら滋賀県大津市出身。活躍の場は京都画壇である。
四条円山派の日本画家で、雄大な山岳風景を題材にしたスケール感のある作風で知られ、11歳の頃に四条派の画家・野村文挙に師事。13歳で円山派の画家・森寛斎に師事。中国の故事や伝承などを題材に、中国絵画の影響を強く受けながら若くして作家生活をスタートさせる。
一方、この時期の京都画壇は、明治13年に全国初の公立美術学校である京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)を開校するなど、新しい展望を模索し、極めて躍動的でもあった時代に符号する。
そのような中で春挙はメキメキと頭角を現し、同時代に活躍したライバルの画家は横山大観や竹内栖鳳ら。大正6(1917)年には帝室技芸員任命の栄誉にあずかったそうだ。
画家として大成功を納め、更なる創作の地として求めたのが自身の出身地のほど近くにあるこの地。大正10年に建てられた数寄屋造りの和風建築は、主屋に離れ、築山に流水を伴う庭園にして、持仏堂を有し、茶室は全6室。「残月の間」や「竹の間」など、趣向を凝らした意匠の数々も見事な部屋に、二階にはアトリエと暖炉のある西洋式応接室もある。渡り廊下を遠くまっすぐ渡した北山杉を始め、どこも見逃せない、材の見事さから、照明や家具の当時のままのオリジナルも全て春挙によるデザインへの拘りが見てとれ、邸内を説明して下さった方が「ここは全て春挙の集大成、作品なんです」という言葉に、ハッとする。京都は銀閣寺にある同じく日本画家の橋本関雪による「白沙山荘」も、確か同じくコンセプトだったな、と。そこで顔を見合わせた、どうやらかなり建築や絵描きに詳しく遠方から見学にこられていたご夫婦が、「橋本関雪のところは建物というより庭が良いんだよね。そしてここは、京都の旧財閥別邸より建物はずっと凄いかも」とおっしゃられ、うんうんと頷き合った。
なにせ、資本のある大きな企業の支えなくして、個人の持ち物としてでよくぞここまで主人亡き後90年も、オリジナルを維持して大切に残されてきたものだと、感嘆し合った。しかも重文指定を受けて、現在はお孫さんが実際に今もこちらで普段居住してらっしゃるのだから、もう、何より凄い。
並大抵の努力では、無いだろう。。。
断捨離で身軽になって、失っては一瞬。
多分街の景観や自然の情景など、消えてしまえばもう、過去のことなど明日にでもすぐ忘れてしまう。
自然や四季の移ろいに心を寄せて描いた作風の、その原風景であり作家活動の萌であった故郷に立ち戻った画家・山元春挙の邸宅。今ではすっかり変わり果てた故郷の風景の起点は「こうだったよ」とまるで、現代の我々に静かに語りかけているかのようだ。そしてその重要な立ち位置を踏ん張って、気丈に、お守りされているご家族の存在がここにあり。
そんなことを思うと、ここを訪れた最初のまるで軽々しい動機なんて消え去って、100年の作家とそのご家族やサポートされる方々の物語を想像してすっかり魅了され、そして私自身のこれまでの無関心にもどこか責めてしまうのであった。