部屋着のままお正月準備に追われてひと段落ついた頃。
近所の東福寺の除夜の鐘が、冷え切った大晦日の京都に鳴り響く。1番の鐘の音を聴き分けると思わず表に出て手を合わせる。これまでの無事と。来年の無事を。
恐らく参拝の方々らがつく鐘の音は、力強いもの、遠慮がちなもの、拍子抜けなもの弱々しいもの様々で、なんとも我が諸々の煩悩に応じて親しみ深い。
が、実は東福寺の深夜の鐘の音は、大晦日にだけ鳴る訳で無い。ひと頃ニュースにて、どこかの地方では除夜の鐘の音がうるさいと住民問題になってると言う話も聞いたが、そんな世知辛い話にならないのは千年の都・京都の懐。時々深夜に聴こえる東福寺の鐘の音に至っては、実は時々で無く毎晩鳴っているんだというのを今更ながら知った。
調べるとこの東福寺の鐘の音。それは毎夜11時45分ごろから18回、境内にある開山堂・常楽庵の鐘が鳴らされており、その歴史はなんと750年を遡る。当時、東福寺開山の禅僧・聖一国師は同じく京都五山の建仁寺の住職でもあった為、東福寺のお勤めが済むと建仁寺へと移動されたそうで、その際に東福寺では「送り鐘」でお送りし、建仁寺では「迎え鐘」でお迎えされた。つまり750年欠かす事なく続く習慣なんだそうだ。
そんな鐘にまつわる歴史を知ったのも実は、極めて私ごとながら昨年秋に婦人科系の病気で入院と手術をした事がきっかけである。
現在の私の住まいは東福寺の南側に位置して開山堂からは遠く、その鐘の音は北側に窓のある我が家の寝室に居る時でないと生活音にまみれてしまう。まして12時を前に寝ることは滅多と無い夜型人間なので時々しか聴く事が無い。
がしかしこの度お世話になった総合病院は東福寺の北側にあって開山堂が近く、消灯後の静かな病室のベッドで横たわっていると、毎夜澄んだ鐘の音が朧げながらもはっきりと聴こえてくるのだ。
特に術後の全身麻酔が切れかけてくる頃、痛みがリアルに感じられるようになり、断片的で意味も繋がりもない悪い夢にうなされる最中、この鐘の音がポーン、ポーンと鳴って、一瞬、自分の家に居るような錯覚がした。心細くて堪らなかった気持ちがふわっと和んだ。
かくして、そんな夢が醒めてしまうほどでは無い音量の優しく澄んだ音色は、私勝手に時々鳴っているのでなく、毎日毎晩、誰かを送り迎えし、誰かの孤独を埋め、また誰かを励ましたり労ったり支えたりして、まるで深夜の無音の世界に小さなあかりを灯すように、遠い昔から続く京都の欠かせない環境音のひとつ、だった訳である。
全ての経験は自分にとって、全て意味あるものと捉えたいと近年しみじみ思う。生きてきた環境で得た経験もそう、大事な人を失ったこと、あらゆる痛み、その際の感情の起伏、出来る事なら全てを体験せずとも誰かが苦しんでる時、悲しんでる時、心から共感出来る想像力を持ち得ていたいと思うが、どうやらそれらに乏しい私という人間は、なるだけ近い体験を実際に我が身で経験しない事には分からないように出来ているらしい。
ましてや、自分で既に体感していておいて、大事な誰かの窮地に接した際に、共感を越えてアドバイスはおろか、結果的にはマウントを取るような事にならないよう気をつけないとと巷で散見する人のフリを見て常思うが、これも実際にはなかなか難しい。
そんな己の至らなさをつくづく思い知らされた一件があった。
一昨年秋に亡くなった叔父(父方の叔母のご主人)の一周忌に呼んでもらったが、残念な事に私の入院と日付が被ってしまった。そんな事も無ければ年老いた叔母に病気の話など言うつもりも無かったが、不参加の理由に仕事か用事など曖昧に偽るのも失礼に思い、不義理を詫びつつ、努めて楽天的に、入院の話をした。
叔母は一周忌の事など何も気にしなくて良い、ゆっくり、この際悪いとこ全部治してもらいなさい、そしてこれからは自分を大事にしなさいよと言い、「菜穂ちゃんがそんなに明るく話してくれて叔母さんは嬉しい。きっと大丈夫」と盛大に励ましてくれた。
ところがである。この叔母も実は一周忌を終えてすぐに自身の入院と大きな手術が決まっているのを内緒にされていた。全ては、終わった互いの術後、それもこちらが落ち着いただろう頃に「お見舞いも出来ずにごめんね、実は」とかけてくれた、叔母からの電話で知った次第。
「菜穂ちゃんが大変な時に追い込みたく無かったから」と叔母。思い返して叔母の台詞を辿っても、僅かにもご自身の病気を匂わせる一言も無かった。急激に襲う後悔の嵐。「何にも知らずに自分のことばっかり話してごめんなさい」と言い続けるのが精一杯。一足先に体感した術後の譫妄や痛み、夜の孤独や不安を思うと、叔母さんの身を案じて堪らない。ところが叔母は言う。
「世間がコロナ(院内面会謝絶)で良かった。子供らもみんな忙しいのに、お見舞いなんて大変や。みんなの時間を奪いたく無い」。
聞けば入院中の着替えなどもレンタルで済ませ、退院後は(入院前に)ケアワーカーさんと相談して回復するまで食事の支度を頼んでいると言う万全の体制を自ら構築されていた。ここに至るも人に守られる側より人を守ろうとする側の85歳。あっぱれである。
「すごいなあ。叔母さんまるで、家族も無しでこれまで一人生きてきた人みたいね」と言うと、「菜穂ちゃんだってきっとなれるよ」と叔母。いや。とてもじゃないけど足元にも及ばない。
人の世話に尽くし、人をひたすら鼓舞し、自分の弱音は決して吐かず。然りとて近寄りがたい姿でなく、大抵は人の話をニコニコと聞く側に回って無闇に自分の意見や体験を語ろうとしない。だけどほんの時々、こちらに刺さる言葉を言ってくれる。思えば一貫して叔母はずっとそんな人だった。
しかし、極力他力に頼らず、いつまでも自分の足で立っていたい、それは誰しも願う所だろうけどそんな気持ちがより強い人ほど、予想外に襲ってくる老いや病に抗えなくなってきている実感に、本当は不甲斐なくて辛くて堪らないのではないか。とは言え生きていく上で大事にしてきた自分なりの哲学の方向転換なんて、簡単には出来ない心の葛藤がある筈ではないか。そんな考えも一方で浮かんだ。
さて。これまで私は、自分の健康に高を括って生きてきた訳ではまさか無い。
生死に関わるでは無い程度だが、時々地面の小石が突出してくるように、絶好調の度にガツンと挫ける健康上のアクシデントと伴走してきた。それでもなんとかありがたい事に、仕事に穴をあけること無く、かつ得意先に実情を吐露して気を遣わせる流儀違反も無しで仕事を続けてもこれた。
いや、奇妙な話だが(随分昔の時効話だから蓋開けたっていいでしょう)忘れもしない2度、クライアント都合で身に覚えの無い病気欠場と言う汚名を着せられて、結果的に仕事に穴をあけさせられた事はある。一度は担当の営業さんが上司から猛烈なパワハラを受けられての巻き込まれ事故。もう一度は別の営業さんのスケジューリングミスによるドタキャン理由の責任回避に使われてしまった。
誇れるだけの腕が無い分、最低限の基本である「何があっても仕事に絶対穴を開けない」「どんな日でも現場を明るく」がモットーだった私にとって、屈辱の極みであり、不本意ながらも現場に迷惑をかけてしまった罪悪感でいっぱいだった。悔しくて堪らないけど見苦しい告発もせず口を閉じた。
ところが、ありがたい事にその先のスポンサーの担当者さんがいずれ(全く別企業)も「あんなにいつも元気な谷口さんが病気で来れないなんて。点滴したままでも絶対来るでしょう」と言って全く信じなかった。そしてそれ以上深く聞くこともなく、ありがたくも現在に至るまでお声を掛けて下さっている。
我々の仕事は、例えこちら側は連動した動きであってもお客様側には普段とは違う特別な1日だ。なので、前日に何があろうとゼロスタートの現場では元気に挨拶する事から始める。それまでに下準備があり、予算と案件をなんとか勝ち取られた努力があり、その先には絶対的な納期があり、集まったそれぞれのプロは大抵個々に活動されているのでそれぞれに予定があり、つまり揺がしがたい日程の元で何事も動いている。遠く見渡せば自分の代わりなどいくらでも居るけれど、その時その時に自分の代わりは居ない。そんな事は百も承知なので、休む訳が無いのだ。しかも、当たり前だけどその先の消費者に響くような絶対的にいいものに仕上げないといけないので、心も体も準備万端で臨む。自分側では常に、そのことを必死で守ってるつもりだった。
信用を築くのは遠い道のりだが、失うのは一瞬。フリーランスの職人なら誰しも同じ最低限の気概だろう。
この経験は、私にとってお客様への深い恩義を感じる非常にアイコニックな出来事であって、元気印の打たれ強い姿勢だけは絶対崩さないぞと言う、自分の中での強固な誓いにも繋がった。よって何がしかの病気療養中も事情は奥に引っ込めて、私生活の浮き沈みにも表で絶対泣くもんか、豪雨、ホワイトアウト、台風。。。アクシデントをなんとかかわして道がある限り、飛行機が飛ぶ限り、新幹線が止まらない限り現場に向かって快活に、30代、40代、限界も気合で超えられると過信したまま、忍び寄る諸々の老化現象にも鈍感なフリを決め込んで50代に突入してしまった。
そして全く無謀な事に、先の入院ではその前日まで、そして退院の翌日から、事情も言えないままガッツリ仕事を入れてしまった。入れてしまった後で先生に相談すると、「それはダメだと僕の立場からは言えない」としながらも、看護師さんに「本当に大丈夫かなあ」と呟かれたそうだ。
「ただ、手術の結果と術後の経過によっては、入院が長引く事もあるんですよ。そしたらどうしようもないですよね」。そう畳み掛けられた時に、流石にハッとしてしまった。自分の気持ちだけでは何とも出来ない事だってあるんだ。穴を開けちゃいけないと思って結果安請け合いしたばっかりに、下手をしたら更なる迷惑がかかる事もあるんだぞ。と。
そこからネットで人の体験談を調べ倒すと、まあおおよそ退院=無事完了ではなく、退院後は自宅でしばらく療養するのがデフォルトだとも知り、実は暫く避けるべき肉体労働の部類だった我が生業を振りかえった。
以降、本当に点滴打ったまま病院抜け出せるかな、ここから機材どうやって取りに行こう、立ってサッサと歩けるかな、これがコロナだったら今や不可抗力のジャンルにカウントしてもらえるかな、そんな事ばかり愚かにも入院中は考えていた。オチとしては術後経過もタイムスケジュール通り、現場を盛り上げるだけ盛り上げて、仕事先に打ち明けずに済んでお手を煩わせる事も無く、つまり何も無かったようになんとか完了したけれど。
自ら課してしまった偽りへの挽回と、独りよがりの使命感や責任感に追われて、流石に今回ばかりは生きた心地がしなかった。認めよう。やっと自分の限界が見えた。呆れ果てた神様も「もうこれで最後やぞ」と救って下さったんだと手を合わせた。
と。ここまで。
東福寺の鐘の話から何のことやら新年に向けての大袈裟かもしれないけれど、粗筋として要約すれば我がカミングアウト話。よる年には実は叶わなくなってきた事をもうちょっと、無理せず打ち明けてみる苦手な努力をしてみようと言う試みである。
多分、こんな話でもしない事には、傷が癒えたらまた同じ間違いをしでかしそうだから。年始の誓い。まあこんな長文、最後まで読む人もそうそう居ないだろうし(笑)SNSにアップする写真で匂わせ系と言うのはよくある話だが、長文で匂わせ、と言う試みも、意気地なしで理屈臭い私にはアリかもしれない。
ちっぽけながら、私にとっては最大の勇気。
これからはもうちょっと、気持ちにゆとりを持って焦らず恐れず、本当の意味で心身万全の態勢で現場に挑めるべく整えて、その時その時の自分らしいやり方で仕事をしなければと思う。30代、40代とは働き方も生き方も違ってくるのは冷静に考えれば当然で、個人差はあれど本来ふさわしい在り方だってあるだろう。
が、勿論不安だらけだ。ただでさえややこしい世情の中、実はポンコツなんですと白状しても仕事の依頼は途絶えないだろうか。まだまだ仕事しなきゃ生きてはいけないし、同時に社会的責任も果たしていきたいし仕事への自負だってある。その先には自分なりの夢もある。
でも、四六時中キラキラ元気だなんて若いフリした偽りも滑稽だし痛々しい。然りとて加齢を自虐したり泣き言たれるのも好まない。そして末っ子育ちなのに人に頼ったり人に気を揉んでもらうのも苦手(苦笑)。こじらせてるよなあ。
そうか。「出来ない」「無理だ」が言えないなら、迷惑のかかる手前でそっと身を引いて休めば良いんだよ。まずはそう、自分に言い聞かせてみる2023年。
最後に。
入院先でお世話になった医療従事者の皆さんには、本当に良くして下さった事を、ここで改めて感謝申し上げたい。
昼に夜にと、特に女性には自律神経がめったうちにやられそうな勤務体系かつ激務の中、常に人の生死に関わり、人の最大の秘密に向き合い、加えてコロナ渦ではこれまで以上の仕事量を強いられておられる中、快活に、さり気なさや優しさをもって接せられるのなんて本当に凄い。夜中に何度も様子を見て、寝返りを打たせてくれて、酷い腰痛には熱くしたタオルを当てがってくれたり、心配が無いようしっかり向き合って話して下さったり、まるで親が看病してくれてるようでした。本当にありがとうございました。
仕事で時々、病院関係のパンフレット(主には昨今の人材不足のための採用案内用)の撮影を依頼される事がありますが、その時は漠然と医療従事者の友達らの事を思い描いて、働く姿や表情を出来るだけ素敵に撮影してきたつもりだったけど、これからはもっとちゃんと、真に迫った現場の分かる、精一杯に心を込めた写真を撮りたいと思います。
加えて。
これまで自分と同じ、あるいはその他の病気で療養、入院や手術をした友人知人が何人も居たけれど、やっぱりよく、理解してなかったと心から悔やんでいます。みんな頑張って頑張って、乗り越えてきたんですよね。今まで愚かにも心から寄り添って無かったのかもしれない。本当にごめんなさい。
自分の年齢的な事や、分かってなかったなという話で付け加えるなら更年期。そう言えば、自分が子供の頃、我が、そして友達の母親らが当時絶不調で、友達のお母さんなどは夜中に救急車に運ばれる人も居て、けれど原因不明でよく分からない時期があったけど、そうか更年期障害だったんだ、本当は相当辛かったろうなと今更身に沁みる。この更年期も、人によって程度も始まる時期もまちまち過ぎたり捉え方や考えの違いもあって、周囲どころか同じ女性同士でも一枚岩でいまだ理解されない向きがある。何にせよ普通の社会生活を送るのが困難なほどの症状が出てる場合、自分も、そして周りも、いくらなんでもそれは立派な病気である事を認めて欲しい。がしかしもっと昔だと精神論で片付けられたんじゃないか。
近年は著名人らが自身の更年期について公表して実態を語り出した事によって少しは、相互理解が深まったかもしれない。それに、身近な存在には理解されずとも、ネット社会の遠い存在では、同じ苦しみを共有出来るようになったのも大きい。我々以降の世代には、そうした理解が進んで、今よりもっと生きやすい世の中になったら良いなと願う。根性論、精神論なんて、前時代過ぎますよね。
あと。
まさに命をかける大変な病いを罹って、何度も何度も入退院や手術を繰り返しておられる戦う皆さんへ。
想像を絶する日々を乗り越えるその不屈の精神に、心から、エールを送りたいです。
毎日毎晩。どこかで誰かが鐘をついて、または闇夜の灯のごとく要所、要所に存在して。
守ったり。知らせたり。
それらに救いを求める人、癒しを見出す人、
あるいは逃げ惑う人が実は、この世の中にたくさんたくさんおられる。
※本文には我が家の5匹の猫のお正月近影を配してみました。のんべんだらり、無理せずお休み上手な猫ですが、実は自分の病気を隠しがちで表に出さないと言う性質もあります。野生の習性で、自分の弱みを見せることはイコール命取りだからとも。
さて。
気分を変えて2023年のお正月備忘録ブッコミ。
今年のおせちはあんまり冒険せずに、やれる事をやる、と言う無理ないスタイルにしてみました。
食材はいくつか、お友達がくれたりしたものを使ってみたり、数年後移住予定の石川で買い求めた農産物を使ったりしています。
今回の眼から鱗は、おツレがまああんまり、世の男子群には不人気傾向のお煮しめが実は、好物だった、と言う話。それから、これまでブリの照り焼きの臭みは湯通しでやっていたのを、今回は塩を振って30分置いて浮いた水分を拭き取り、薄く小麦粉を振ってから焼く、と言うのに変えてみました。作って結構時間を持たせるおせちには、少なくともこのやり方の方がずっと身がふっくらしたのを保つ、と言うのを実感しました。
おせちの盛り付けは楽しいながらも案外時間がかかり、そして料理を並べる広い場所が必要で毎年パニック。いつか大きくて機能的で楽しい気持ちでずっと居られる台所を持つのが夢です。
生前の父親とのおせち作りでは毎回、「盛り付けの時、ラップとかアルミカップとか使うの嫌やなあ、色気ないもん」と言い合ってたのを思い出します。お重も木材だし、お料理だって自然のもの。今みたいにサスティナブルがどうとか、SDGsがどうとかの話でなく、とにかくせっかく頑張って手作りしたものが、最終でケミカルな異素材に包まれるのはなんかどうも、納得がいかない。さりとて、隣同士のお料理に味がうつったり汁がまみれたりで、解決せずに毎年過ごしていました。
近年は、バランや南天、ウラジロなどが庭で盛んに育ってくれて盛り付けに重宝していますが、まあやっぱり、お重の底にべったりするいろんな出汁やタレの解決策は見えず。
で。これも眼から鱗。
昨年の長野方面出張の際に道の駅で出会った、株式会社やまとわさんによる「信州経木」。所在地にある伊那市は赤松の産地で、度々広がる深刻な松枯れ病は、被害が拡大する前に伐採するしか策が無く、せっかく長い年月をかけて育ったこの赤松を使って何か、と言う事で、家具などは勿論ですが、食材のしたに敷いたり、保存したり、包んだりするのに便利ないわばペーパーのような素材を開発されています。
赤松は抗菌性に優れて調湿作用もあり、香も強過ぎないので匂いうつりがしないなど優秀木材。そうだ、杉皮とか、昔は肉屋だったら何処でも包んでくれたし、今はわずかですがたこ焼き屋だって。
と言う事で、今回、お重の底にそれぞれ敷いてみたら大正解。汁物もしっかり吸ってくれるし、何より、お正月らしい、お重を開けると木の香りがフワッとして、気持ちがキリッと引き締まります。
詳しくは公式サイトまで。https://shinshukyougi.jp
そして。おせちリメイク、と言うのも大袈裟ですが、目線を変えて残り物おせちを楽しく最後まで頂く、の巻。
1枚目。おせち料理も2日目にはお皿や小皿にちまちま乗せて。正直、この2日目以降の見た目は個人的に好きな絵。それに家人にも好き嫌い問答無用、盛ったものは全部強制で食べさせる事が出来るので良し。
2枚目。鴨鍋の残り出汁でカレーを作り、一旦野菜や肉類は裏越しに。デミグラスを加えて、最後にローストビーフをトッピング。
3枚目。行列が出来るラーメンシリーズの和歌山ラーメンに、焼き豚、焼き豚の漬けタレ再利用で茹で卵を漬けてトッピング。
4枚目。京都大納言小豆でおぜんざい。栗の甘露煮を網であぶってトッピング。
伏見人形「丹嘉」さんの兎。
これは12年前に当時住んでいた家のお隣さんだった仲良しおばあちゃんから頂いたもの。
当時90歳代で、ご両親を早くに亡くされたお孫さんと二人暮らしで、お孫さんの食事の世話をしつつ、時々来られる娘さんのお世話にもなり、と、妖精のように可愛らしく、朗らかで、とてもバランスの取れた素敵な方でした。
あのおばあちゃんのように歳を重ねられたら最高に理想ですが。。。ともあれ、12年。また無事でこの兎さんを飾る事が出来ました。感謝。