· 

2024年の始まり。

※2023年12月。石川の家に咲いていた石蕗を今年の年賀状にしたもの。

 

 2024年。

 もう書き上げようとしても忘れそうなくらいにここ数年来、疫病、戦争、紛争、戦後から先送りしてきた歪みの大掃除など、延々と年度末や棚卸しのような出来事に疲弊させられる、困難と総ざらいカオスの只中にあって、そうせめて一年で一番、日本人には浮かれた気分に浸れて前向きな祈りが素直に捧げられるお正月というのに、まさかこんなことが起こってしまった。

 

 コロナが5類になって数年ぶりに、郷里へと向かわれたご家族、初めて小さなお孫さんの顔が見られる、久しぶりにお爺ちゃんお婆ちゃん、親戚から手渡しでお年玉が貰えるのを楽しみにしていた子供達、、、それぞれのご家族、それぞれの人達に、そんな大それたことで無い、ささやかな瞬間の贅沢による、無数の物語が始まる筈のお正月だったに違いない。

 まさかそんな日に、これまで先祖代々大切にしてきた家、郷里の風景、そして大切な命を自然災害によって奪われた方々。瓦礫の中に圧縮された色とりどりのお祝いを囲む家族の団欒や、これまでの思い出や歩みと共に封じ込められてしまった中身について、自分の中の想像出来る範囲で思い描いても、心が張り裂けそうになる。

 

 お正月が近づくと毎年、一方で思い出してしまう一枚の写真がある。

それは主に60年代のアメリカ、公然の人種差別と貧困や犯罪に湧くニューヨーク・ハーレムを撮影したフォトジャーナリストの吉田ルイ子さんによる写真だ。撮影時期はクリスマスシーズン。いかにも重々しいぶかぶかの分厚いコートに身を包み、目深に被った帽子で年齢も人種も表情も分からない、恐らく男性が背中を丸めて一人、シェルターと思しき空間で無償提供の食事の入ったステンレス皿に重々しく匙を入れて止まっている。

 モノクロ写真でその他情報も乏しい静かな1枚だけれど、冬のニューヨークの寒さこの上なさを少なからず知り、彼らにとって、感謝祭やクリスマスというのが我々には家族の集う幸福な筈のお正月であるのを想像すれば、こんなに胸の締め付けられる光景が凝縮され語られているのは、そう滅多と無い写真である。

 この写真を見てもう何十年と経つけれど、いまだ鮮明で頭にこびりついて離れない。何故か。自分にはとても他人事とは思えない、何かでちょっと転べば自分も同じく被写体になりえるだろう隣り合わせの恐怖が寄り添っているから。

 だから必死で今まで、自分でコントロール出来るものは調整し、受け止めきれない重いものや苦いものは遠ざけ、他で時間を埋め、過去を振り返らず楽しく過ごせるような努力を必死で積み重ねてきた。多分、戦後の日本人が様々な困難を乗り越えるべく、色んな手法やなんかでやり過ごしてきたように。

 でも。どうにもならない事ってある。

 

 この正月。石川にある家人の実家に行けなくなって、持参する筈のお節が虚しく、昨年にまた独り身になって、どうやら新年早々パチンコしか無い過ごし方をしている次兄へと詰め直して手渡した。そして毎年電話が鳴るけど無視してきた長兄からの電話を、恐らく10年近く振りに出てみた。フラッシュバックするほど似たり寄ったりの過去話に耳を傾けたが、私には穏やかな話ぶりに思えて、いつものようにはそう胸がかき乱される事は無かった。考えれば兄が穏やかになった訳で無く、私の方が弱ってしまっていて、本来心の近い人間とこんな正月だから会話したくなっただけだろう。

 長い電話を切ると、家人は酒のせいもあって泣いて「なんで電話に出るんだ」と抗議した。兄は電話の最後に「電話に出てくれてありがとう」と言った。翌日甥っ子にショートメールで「電話に出てやったよ、笑」と入れると、「正月早々悪魔からの電話でごめんね。でも、時々でいいから喋ってやって下さい、笑」と返ってきた。

 

 人から見ればどんなに風変わりでも、私にとっては良かれ悪かれ家族。せめて自ら失うこともなかろう。元旦の幸福の中、はからずも大切なものを失われた多くの皆さんを思えば、自分なりのこれまでの人生の防御であったとて、あまりにも罪深いことに思えてきたのだ。

 

谷口菜穂子写真事務所
Copyright© Nahoko Taniguchi All Rights Reserved.

 


商用、私用に関わらず、サイト上の全ての写真やテキストにおける無断での転用は固くお断りいたします。

Regardless of commercial or private use, we will refuse diversion without permission in all photos and texts on the site.