季節の切り替えが体の中でなかなか出来てない中を、ソメイヨシノが「起きろ春だよー!」と言うかのようにババッ!と咲いた。そんな感じの2024年春。
近所の本町通り、東福寺駅すぐにピザ屋さんが出来た。生地の耳までしっかり味わい深く、食後のあのなんとも重ダルさが全く無い美味しいピザ。これは非常に嬉しい。
嬉しいままに自転車で、崇仁地区に昨年移転開校した京都市立芸大エリアまで鴨川を北上する。観光客じゃない地元住民の方々が思い思いの桜との休日を過ごされている。景色が良い。
市芸の敷地内に初めて入った。以前は崇仁小学校があった場所だ。塩小路通から眺めていると、すっかり小学校は何もかも壊されてしまったように見えていたが、校内を横切るように流れる高瀬川も、そこにかつて小学生や地域住民で作られたビオトープもそのまま残っていて、その横に建っていた体育館もそのまま残っていた。故に、体育館の横にどっしり育っていたソメイヨシノもそのままで、この一角はほんの僅かながらも確実に、かつての面影が丸ごと保たれていた。それを見てせめてもと嬉しかった。
その後あたりを少し散策。周りの市営団地群は続々建て替わっているが、このエリアのアイコンである「柳原銀行記念資料館」は市芸の敷地内に組み込まれる形で、一般に存在がわかり易くなった。
明治32年。崇仁地域の町長さんと地元有志の方々によって創設された、被差別部落住民による日本で唯一の銀行とされる柳原銀行。差別による融資が得られない当時において、地域産業や教育への寄与、インフラ整備資金の源として存在したアイコンだ。元は今の位置から300メートルほど北上した河原町七条にあったのが移転され、外観も長らく木目色だったものを、設立当時の塗料が解体移転の時に出てきて、現在の色に戻されたそうだ。以前の写真の外観を見て、「そういえば、あったなー」と、遠い記憶が蘇った。
平成元年頃に京都市による取り壊し案が出た際には皆さんで保存運動をされて、こうして残された事も良かったし、展示も歴史の語り部としてとても貴重。その展示の中で知った、名物校長先生で戦後は地域の弁護士として奔走された方が鹿児島県人でこの地に赴任されたとの記述も、(鹿児島と京都のハーフな自分としては)内心とても誇らしかった。
ということで、春の休日はささやかながらとても気持ちがよかったです。