(震度6強の地震と津波被害を受けた珠洲市某所エリア。)
4月半ばから5月半ばの間で、能登半島へ3度。
内2回は復旧に向けて建築や構造の専門家チーム調査の皆さんと同行し、内1度は石川の家の草刈りを兼ねて、富山の氷見に実家がある友人らと訪れた。
行けば被災状況や復興の進捗状況がある程度見えるし、行かないと何も見えない。加えてできる限り、出会った方々と直接お話ししないと、まずは浅く、そして深くは分からない。その事を痛感している。
かつて阪神淡路大震災の被災直後に、「炊き出しボランティアやるぞ」と言われるまま、写真の師匠ら仲間と共に京都から神戸へ向かった記憶は、視覚的にはかなりぼやけている。その前に、地震の翌日かに師匠が衝動のまま記録写真を撮りに行ったのも、その時の師匠の行動に対する自分の感覚だけははっきり記憶に残っている。もちろんで、撮られた写真もコンタクトシートで見渡した。それが精一杯だった。記憶を辿れば、それを見て腹の中で沸々湧くものがあったと思い出す。「あんた報道写真家とちゃうやんか。広告の人間やん。何のために撮るねん」と。
ジャンルを問わず、カメラを握ってレンズを通す視点を持った人間の性のようなものに対する共感性が、まだ自分の中で醸造されて無かった頃の話だ。
つまりその頃自分はとても若かったので、年上の人達とは違った方向の正義感と、控えめ過ぎる実行力のもと、ほぼ生まれて初めて見た光景にただ狼狽えていた。やる事なす事、ニーズと思いが合致してないような、中途半端なような、偽善的なような、興味本位のような、申し訳ないような、自分達のやってることは果たして善行なのか、なんなのか。。。モヤモヤとしたまま、がしかし少なくとも今回の能登半島地震よりも遥かなスピードで神戸の街は(良し悪しは別として)片付いて行って、あれこれ浮かんだ気持ちも消化不良のまま、一掃された災害瓦礫と共に消えていった。
あれから四半世紀以上。今回の能登半島地震では、ほんの少し、つま先レベルで踏み入れたかのように石川に家を持ち、やがて移住する予定の余所者かつある意味では当事者でもある。というか、今こそ当事者意識を持って関わらねばならないだろうと言う気持ちに急き立てられてもいる。
実際には今もって何にも出来ていないし、それ以前に受け止めの整理も出来ていないけれど。
(添付写真は宝達志水町にある築140年の民泊。この辺りも震度5強の地震を受けたが大きなドイツ製の振り子時計だけが故障したものの、土壁のクラックさえ無く。「丁度お正月に子供達も来てて、不思議なもので6ヶ月の赤ん坊だけ、一人(自ら)ハイハイしてテーブルの下に隠れたんよ。それにびっくりした」と、家主さん曰く。)
それにしても、我が生業の「写真」というものについては、あれこれと今更ながら考えさせられる。少なくとも、今回の地震を舞台として、「写真」というものが世間に与える影響について、かなり実体験の中で復習させてもらっている。
こと報道写真(報道映像)となると中立であるべしという大前提にあって、やはり「写真」というのは(映像も含め)どこまでいっても撮影者(あるいは発信者側のセレクトの元)の主観によるので、その主観が切り取った絵面によって、受け手側はいかようにも振り回される。
確かに、「写真」は(今の所生成AIでない限り)被写体が存在しない限り写真にならないので嘘ではないが、その主観の軸をどこに置くかによっては、レタッチせずとも真実とはかけ離れたものにもいくらだってなり得る。
「一級の嘘つきというものは、ほとんど嘘の中に真実をほんの少し加える」かのように、かつて戦時下から戦後、60年代にピークを迎えて衰退の一途を辿った報道写真によるグラフ誌の発行部数の減少と相次ぐ廃刊は、日本に限らずお家元のアメリカやヨーロッパでも、紙媒体が衰退するよりもずっと前に起こったものだ。
より人々の注目を集めようとする衝撃的瞬間に注力され、表現の競争が加熱し、時に禁じ手である演出(加工も含む)も加えられ、いつしか見る側も疲弊し、消費型ドラマに慣れて結果、写真の言わんとすることが入ってこない不感症になってしまった。
とどのつまり、「写真は時に真実を語らない」。言えばそれが段々とバレてしまった事による。
但し書きとして付け加えるなら、著名写真家は勿論だが、当時の名も無き報道写真家らによるグラフ写真群を改めて見ると、「写真」という物だけを正当に評価するなら今の(私も勿論で含めた上で)写真家と比較すればもう、足元にも及ばない程メチャクチャに写真が上手いし構図の凄みも、つまり熱量も桁違いだ。モノクロ写真の場合だとプリント技術も唸る。これは只々純粋に感嘆する。
(添付写真は輪島市の總持寺祖院。2007年の能登半島地震で被害を受け、40億円もの耐震修復を行ない、完了した一昨年も束の間。報道によって完全に倒壊した渡り廊下の映像や写真などで多くの方もご存知だと思うが、世間に出回るそれらはおおよそ倒壊した渡り廊下のみのトリミングによる絵面だ。だが実際には、ブルーシートに覆われた渡り廊下の背後に見える山門は、勿論修理は必要だが軽微な被害で無事。山門から渡り廊下エリアを公平な視点で表現するならば、例えばこのようなアングルになる。)
とは言え、未だ写真自体の持つ力自体は残っていて印象操作力は依然として健在だ。
例えば今回のような自然災害においては、被害状況をクローズアップすればあたかも街全体が壊滅状態になったと思わせる効果は充分にある。その一方で復旧しつつある姿を見せれば見る側に安堵の気持ちを与える効果も絶大にあって安全宣言の一役をも担う。がしかし、「写真」はそこでも受け手側の自由の余地もあれ、言い方を変えれば罪深くもある。受け取る側の想像まではまさかコントロール出来ないので(そこが良さでもあるが)、悲惨な絵を見せれば「助けに行かねば!」という善意を掻き立てる一方、「もう終わったな」と諦めも生じさせ、「行けば復興の邪魔になる」と人々を遠のかせる負の効果も絶大だし、元気そうな街の姿を写真で見れば「良かった良かった」と思わせる一方で「もう助けに行く必要も無いね」「何もかも大丈夫、注目するのはやめよう」と、復活完了したような錯覚すらも与えてしまう。ある程度、ある期間までは関心・無関心の層に関係なくインパクトを与える効果はあっても、それを越えると結局は、無関心層と関心層の比率を揺るがすには至らない。撮る側のエモい気持ち全開で切り取られたものは、見る側の感情も大いに掻き立てるがそのクオリティが高ければ高いほどピークから冷めるのも応じて早い。ただでさえこの世の中、その他あらゆる情報が毎時毎秒更新するのだから、写真は広告であれ報道であれ、消費される儚さに消えるのだ。
それら状況における大衆心理の傾向把握と対策の全てが、仮に発信者側の意図に基づくものだったら。と、いう穿った見方は抑えるとして。
自分のように、ジャンルは全く違えど「写真」が生業である者ですら、普段遠く離れた所から報道される写真や映像に浸っていると、報道から外れている地域の被災状況は大したことは無いのではと思い込んでしまうし、あたかも奥能登は殆ど壊滅したような印象を持ってしまうのだから驚く始末。そこに数字を伴ったコピーも添えられると、もう。
がしかし行けば分かる。見る側の自由過ぎる想像は時には当たってもいるし、全くの的外れでもあると。
要はその視点を置く人の主観、あるいは専門性や関心の度合いによって、いかようにもまとめられるのが「写真」の持つ無責任さでもあり無邪気さとも言える。「写真」は、悲惨なものばかりに目を向けたがればそこは地獄にもなるし、怖いものや辛いものから目を避ければ、そこは天国にも映るという訳で、我が目、それぞれのものの見方をそのまま反映し(あるいはコントロールも出来て)、人々はそうした「写真」の中で好みのものを選び、それぞれが実際に見たような気分にさせるのだ。フレームアウトした一方の真実については誰も想像しないし、フレーム内に留めて思考停止してしまう。
長い地球とその自然のサイクルから照らし合わせば、1826年にフランスで世界初の写真というものが誕生して僅か200年足らず。絵画のトレース器具から始まり、肖像画から肖像写真に重用され、時に絵画のように、あるいは見果てぬ国を写しては人を驚かせ、その後は軍需機材(記録機器)として数多の戦争と共に技術開発を加速させた写真術とカメラ。その歴史を辿ると加筆や加工の技術もその誕生とほぼ同期で寄り添い発展してきた。よって、写真という存在は一方で常に流動的で、真実とプロパガンダ、それぞれの正義や価値観に左右され、懐疑され、議論されるものでもあった。しかも結論というか、あるべき在り方のようなものに到達もしていない。ここで生成AIも参戦するとなると、もうカオスでしかないので一旦写真については筆を置くとする。
ともあれ、残念ながら、「写真」の役割あるいは特徴はそういうものであると、撮る側も見る側もそして被写体側も、理解や戒めが進めば良いとも思う。
それぞれが実は見たいものを選択している事を前提としているのだから、その存在を丸ごと過信してはならない。そして撮影する側は、多大なる責任を持って、その目とそのシャッターを切る行為や発表する立場にある事には、それを見る側の人間や見られる側の被写体の存在についても忘れず、肝に銘じて挑むべきである。第一、その写真が今後何十年、何百年先に残った場合、被写体そのものは消滅した先に、自分の写真が持つ責任が、後世に対して持てるだろうか。なまじ真実の一部であるから、それを思うと結構厄介だし果てしない。
あくまで、これも私の主観であるのを先に断っておくとして、記憶を引っ張り出して阪神淡路大震災と比較するならば(今回の能登半島地震はそれ以上の地震規模であると言われているが)街の様子としては建物自体は声高に言われているより正直かなり残っているというのが、個人的には率直な感想だ。
とある住民の方の声を借りれば「立ってるだけ。中はぐちゃぐちゃよ」と表現もされる方もおられる。また別の方は「うちはお陰様で大丈夫だった。他の方はもっと大変」とも謙虚に言われる。
つまり、生活するには大なり小なり修復が必要とされるものが、おおよそ能登半島を北上すればするほど増えていくので、伴って、復旧業者の足が遠く、それ故多くの助けが必要であると言える。総じて、この強い地震に遭いながらも残ったものを、わざわざ公費解体で何もかも破壊せずとも、手が加われば相当数の被災家屋が再生可能であり、まさかのまさか、暮らしの場として終わってもいない。
むしろ、冷静になれば不思議でしかない、2年で壊す前提の応急プレハブ仮設が(今時のハウスメーカーによる家でも似た値段でありそうな)どうして1千万超から二千万円もするのかという減価償却率べらぼうな金額的ハードルと、コスト面が邪魔をして必要数が満たせないというジレンマ。また、どうして壊すためのお金は出せても修復の為のお金となると渋いのか。更にはどうして被害状況によって生じる不平等性が明らかな救済制度に翻弄されねばならないのか。などなど。浮き彫りになった多くの問題に対して前向きな議論の元に、より良き街や集落の今後の在り方やそこでの暮らし方こそ、みんなで取り組むべく謎解きや不条理改善への挑戦が、始まっているとも言えるのでは無いだろうか。
災害大国日本において、今後の教訓や課題解決、来るべき有事においての在り方の見本としても。
(添付写真は富山県氷見市内の旧街道沿いにある、液状化被害に遭った商店街。多くの家屋の中で二棟だけ、一階が潰れた状態にあった。建物外観から、剥き出しになっている柱の根本がそもそもで腐っていたのが地震にあって倒壊した原因と、建物構造の先生曰く。看板にあった商店名はレタッチで消して、特定を避けています。)
被害状況に関して言えば、立地条件によっても様々で、海辺の砂地、大きな岩と思いきや珪藻土など揚げ餅やウェハースのようにそもそもでちょっと力を加えればパリンと脆く崩れやすい所、元々が埋立地だった所、津波でやられた所、火災が起こった所、活断層の上、海辺、山間部。。。など多種多様に構成されており、故にこれら条件に応じた修復方法も復旧への考え方もまた様々である。
目の前の集落は全くの無傷でも少し脇にそれた集落は大きく被害を受けていたりもするといった具合で、無事と有事がマジックでも見ているかのように隣り合わせで存在し、素人発想の視点で耐震性云々とか築年数云々とか、原因と責任を簡単にひとまとめで結論すべきでは無い。
真新しい新耐震の家々だって余裕で倒壊してたりもする一方、築百年以上をゆうに超えた立派な木造の家が全くの無傷で存在してもいる。そもそも震度が幾らかというのもあくまで目安であり、揺れ方や、その建物が建っている地盤によっても被害内容が変わる。であるから、それらに適時応じられる正しい目を持ち、高い技術を有した専門家による調査と復旧、今後は安全に過ごせるよう、修復に向けた丁寧な介入が必要とされる。
何せわずかな平地に田畑と人里、あとは海と山で構成されて山間部に集落が点在している日本の縮図・能登半島であるから、例えば宅地開発された大規模平野部における暮らしの場を、また何もかも魔法のように一斉に取り除いて復活させることが出来る国じゃ、そもそもないしまた決してすべきでない。
であるから、相当の時間がかかること、それについて当事者も余所者も多くの人が理解し、忘れず、長い目での生活再建や復旧に向けた諦めない心と支援の力を注ぐ必要があるということが認識・共有されたらと心から願う。
(添付写真は七尾市某所の倒壊した納屋の屋根に掲げられていた筈の動物瓦「うさぎ」。五穀豊穣や子孫繁栄を象徴するうさぎを掲げるにあたり、ご先祖様は我々に何を引き継ぎたかったのだろう。)
能登立国から1300年。長い歴史を経て厳しくも優しい自然との共生によって育まれた里山・里海が広がる能登半島。その度々に、起こった大きな自然災害にも遭いながら、人々は自然と喧嘩せず、その恵みに敬いながら暮らしを立て直してきた歴史がある。
更には、今回の地震においてはご承知の通り地盤隆起が激しかったのだが、地球科学的に言えば何千年、何万年に一回という、まさに能登半島が形成されたプロセスを我々はこの目で目撃したとされる。つまりこんなにも、ダイナミックな地球の動きと大地の形成を、我々は生きている間にまさか出くわした訳だ。次は何十年後の月や流星のあり様に、「ああその時に自分は生きてるかなあ」なんて、おセンチでショートな時間軸の話じゃない。
ましてや、僅か数十年レベルの大した検証もされて無い建物の旧耐震は悪、新耐震は善、とのジャッジも、ついこないだまで言われてた筈の地方創生もすっかり忘れてコンパクトシティ化に向けての提言に見られる生産性だけを軸としたインフラ整備の見直しも、現代社会に暮らす、せいぜい百年単位しか測れない我々寿命基準の物差を用いたところで、結局自然には鼻でフンと笑われてしまうだけでは無いだろうか。
知識とプライドを詰め込んだ骨(鉄骨)も細胞(砂や砂利)も無いスカスカで練りの足りないコンクリート造建物の中で、遠くから指示出しする都会の偉い人達の絵空ごとに、こうなったら振り回されることも無いんじゃないか。
自然に振り回されるだけでもう充分。だけども自然は、時に厳しく時に優しく、豊かな恵みも与えてくれる。一方で人間社会においては、何らかを作る人、作れないのでそれを買う人、そうやって、これまで都会と地方でお互い様でやってきた。いや、売り買いの話だけじゃない。もっと広い意味でも、この地球上に生きるすべての生物には、それぞれに存在の意味がある。
だから。何も遠慮せず、それぞれにそれぞれが役割を担っていると、おおらかに、堂々とすれば良い筈だ。
生きたい所で生きる権利をそれぞれが有しているはずで、生活の基盤を整えるにあたり、その自由を他の人間の思惑や指図によって奪われるのはおかしい。
(例えば参考までにー千葉大学及びNPO法人環境エネルギー政策研究所による再生エネルギー自給率及び食料自給率の全国の市町村比で見ると、いかに地方が都会の暮らしを支えているかが分かる。国レベルで見れば世界と比べて日本の自給率が極めて低いと言うのは認識されているが、この表を見渡せば、日本の中でも地方がどれだけ食料自給率や再生エネルギー自給率が高いか、地方が都会の足を引っ張ってるなどと言うのはあまりの妄言だと言うのが一目瞭然である。石川に限らず全国都道府県毎の数字が出ているので、ご自身それぞれの暮らす街の構成を知るにも必見資料。)
最後に。
1970年代から2003年に計画が凍結されるまで、まさに今回起こった地盤隆起の最も激しかった珠洲市において、なんと二箇所も(関西電力・北陸電力・中部電力の三社による)原子力発電所の建設が計画されていた事に対して、長年に渡り粘り強く反対運動をされて凍結を勝ち取った地元有志の皆様には、その戦いの経緯を知れば知るほど軽々しくも言えないながら、心からの敬意と感謝を申し上げたいと思います。
当時「強固な岩盤であるから安全」との電力会社の言葉に惑わされず、推進派による「反対と言うなら地元経済の活性化に対し、これに代わる代替え案を出せ」と浴びせられる中、地元を去らずに守り、踏ん張られた皆さん。
偉い人間が言う「想定内につき安全」も、その後簡単に何かあれば「想定外であった」と言われて終わるのは、こと原発に関して言えば東日本大震災における福島で、我々は目の当たりにしました。
現在は石川県志賀町にある志賀原発も、再稼働について即時停止と廃炉を求めた訴訟が行われています。
空も陸も海も、実は繋がっている我々の暮らしが今こうして平穏に存在しているのも、皆様による長年のご尽力の賜物です。
(添付写真は、津波被害と海底隆起によって海岸線が大きく後退した珠洲の海辺。)
無責任な人間のやる事に対して、責任を持って抗うことが出来るのも人間。みんな、誰もが実は当事者。
(観光客で湧く金沢市内からすぐの、液状化被害にあった内灘地区。)
(金沢市にある旧県庁「しいのき迎賓館」にて連休中の3日間開催された珠洲焼の展示即売会には、多くの方が訪れた。
珠洲市内にあった約20ほどの窯元は全て倒壊し、何とか救出された器たち。)
(震度6強が襲った穴水町の某集落にある保育園を備えたお寺。地震動で礎石から柱が外れたものの、場外に至らず無事だった鐘楼。指定避難所が車で5分ほどもかかる場所のため、多少の備蓄のあった併設する保育園に最寄りの集落の方々、およそ50名が避難された。公式な避難所で無いため救援物資が届かず、備蓄が底をつき、マスコミに訴えると全国から生活必需品が届いたそうだ。住職や坊守さんを始め、保育士さんも以前から危機意識が非常に高く、防災士の資格と訓練を重ねられてきたことがとても役に立ったとお話しされました。建物被害は多少なりあり、今後修復されるとのこと。現在は近くの小学校で保育園が再開されているものの、「修復して、子供たちの声が響くのを楽しみにみんなで待っています」との、坊守さんの太陽のように明るいお人柄が印象的でした。)