この夏某日の映画鑑賞の記録。
夏という楽しげな季節にあって一方の対比に、実際に同時代体感した事のある忘れ難い事件映像はありませんか?
自分にとって、中学生の頃の「日航ジャンボ機墜落事故」は、夏の林間学校のキャンプで闇夜の山々に懐中電灯を当てて遊んだ記憶と一緒に引き出されるし、また1998年の「和歌山毒物カレー事件」においては、キャンプと言えばカレーという定番メニューが、この事件後かなり長い間想起させ、封印させるものであった。背裏の娯楽とはあまりにも乖離した、多くの方々の命と心が奪われた事件である。
本映画は、一方で事件後の過激なメディア・スクラムの極みという終わりの始まりである「和歌山毒物カレー事件」から四半世紀を迎えた今(だからこそ)、改めて「目撃証言」や「化学鑑定」の反証を試みる映画であり、確定死刑囚・林眞須美さんの長男、夫の林健治さんら関係者の登場も割り振りながら、冷静さや公平さを保ちつつ、観る側の我々にも当時情報を共有したまま止まった記憶に投げかける作品である。
恐らく、事件後報道の沸点越えから急速に冷めて後、遠くで死刑確定を知る大多数の我々、家の内外にへばりつく無数の記者らに対して半笑いでホースで水を撒く被疑者映像で止まったままの人には、事件にまつわる太々しいキャラクター=絶対犯人であるという推定のままの答えで自己完結させた事件だったのではないだろうか。事件に恐怖し、憤ったのち情報量に辟易し、冷や水に退散し、かけた側が成敗されて終わったかのような。
こうしたバイアスがほぼ無い、あるいは全く無いところから純粋に始まる世代にとって、同じ映画館という空間を共有しながら、この事件の渦中を過ごした我々世代とは全く異なる見え方が生じているだろう。その事をまず、濁ったままの自分の眼差しと比較して羨ましい感情が生じた。
とにかく、全くの関係者でなければ到底立ち入りようのない狭い集落のお祭りにあって、登場人物が皆、役者のように濃ゆいのである。がしかし冷静に思えば、恐らく後世にも語られる国内事件年表にでも載りそうな大きな事件が起こった際、裁判を通して被害者側も加害者側も、世間に晒され、その後の人生をかけて事件に向き合い、対応し、法を学ぶ中で雄弁にならざるを得ないのと同じなのかもしれないが。
この映画でストーリーテラー的な役割を担う長男さんの人柄に関しては、事件経緯バイアスのかかった我々にすれば不意打ちを喰らったように朴訥とした、というか静かな優しさと客観的視点に満ちた普通の若者である。一方で、事件後に児童養護施設に入所せざるを得なかった兄弟姉妹を必死に守った長女は、後に我が子を継父である夫と共に虐待死させたその日のうち、別の幼子と共に関空連絡橋から投身された。和歌山でなく四国出身の夫に関しては、確かに(シロアリ駆除業だったため)身近にあったヒ素を用いて自ら、あるいは仲間内で服用して超高額保険金詐欺を重ねて生計を立てていたヤンチャものであるが、一方で宮尾登美子原作による五社監督の高知三部作に出てきそうな、仲代達矢や緒形拳の演じる男のようにイカつくも明け透けでどこか人好きするような魅力を持っている。そして表題のマミー(眞須美さん)。事件後、書かれた手記や絵画など、人柄がそこはかと知れるものに情報として触れてはいたものの、映像中スポット的に登場する獄中からの手紙の、会話口調の文体、その飾り気の無い表現とタレント性溢れる(好き嫌いのはっきり分かれるだろう)人間臭さにはやはり、なんとも心揺さぶられる。
本当に、この人が犯人では無かったとしたら。そしてその家族がこれまで過ごした取り戻しようの無い日々とは。。。
感想の最後に。
このような映画館という、そもそもで足を運ぼうとした者だけに向けた小さなマスでなく、本来ならば偶然にもテレビをつけたタイミングで見られるような、より多くの人によって視聴されるべきドキュメンタリー映像であり、こうした映像が大きなメディア舞台で取り上げられない事に関して、悪戯にメディア批判などするつもりは全く無いけれど大変残念に思い、また新聞社と紐付けされたテレビ媒体の、再び終わりの始まりを感じてしまった次第である。
映像の中には、怪しい住民一家としてマスコミの集中砲火を浴びるきっかけを作った、当時、夫によるポロリ発言を元に保険金詐欺疑惑の一面記事をすっぱ抜いた某新聞社記者に対するインタビュー(今回はされる側)もあったが、「冤罪の可能性もあるとの声も勿論聞いているが、検証記事を書くべく立場には(自分は彼らと当時近かったので)無い」と言い切ったのには疑問が。四半世紀経った後の彼が思ったより若く、という事は恐らく事件当時はまだ、大学を出てそんなに経ってなかった頃だったんだろう。外側に批判的精神を持つと同時に、自分側にも批判的精神を持つ事を培ってこれなかった、かつては若者だった男の姿が映る。
一緒に映画を見たおツレは、事件現場跡に毎年の慰霊の花を手向け手を合わせる自治会長に対し、その絵を撮りたい取材側が「もう一回手を合わせて下さい」とおねだりする様子の引き映像に対して、「まだあんなやり方して撮ろうとするマスコミがおるんやな」とため息した。ジャンルは正反対にて欲しがり屋な広告屋の端くれな自分としては、同じカメラを持つ者として我が身を振り返る。自然発露の瞬間が撮れないならそれで終わりだろう、そう私は再確認した。最初の祈りの様子に捉えることを躊躇するだろうチキンな自分に向き合い、瞬発力を伴う画力の無い自分の技量を偽りで補わず、ただ真摯に反省を重ねたい。
ということで、多分、早々この映画がテレビ放映される事は無いだろうし、ネットでの映画配信も果たしてあるだろうか。世の中がもうちょっと、変わらなければ難しいんだろうなと悲観しています。
こう言ってしまうと、ただただ重い内容に思われるかもしれませんが、かつて共有された思い込みという加担への罪悪感や、積年のモヤがパッと晴れるような心地には確かになる、渾身の作品です。
誰しもそれぞれの立場で信じる事により、我が正気を保ってきた、想定事実を掘り下げるべく訪れた時間の経過と共に。ともあれ、自分の生きている間にこうした映像と出会えた事に感謝します。と共に、何かが動き出すきっかけとなりますように。
感想が長くなりました。が、ネタバレ以上のボリュームですので是非。ご自身の目と心を携えて劇場へ。