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あの日のことを忘れないために。

 

 2024年11月8日。夜に石川県珠洲へ。今年春から受講している金沢大学・能登里山里海マイスタープログラムでの、翌日のゼミ企画イベントのために前泊。


 今回、私たちゼミチームは、2017年から始まった「奥能登国際芸術祭」の出品アーティストである山本基さんを講師にお迎えし、山本さんのパーマネント作品で今年元旦の能登半島地震で倒壊した作品「記憶の回廊」とその作品所在地である旧小泊保育所にて、作品のモチーフである塩を用いたワークショップと、倒壊した作品を1日だけ公開する「ワンデイ・オープン・ミュージアム」を企画した。

 

 ひとまず、前情報なしで旅サイト予約したゲストハウスに着いたら、出迎えて下さったオーナーはマイスター修了生だったという小さな奇跡。

 廊下の柱と壁の接合部分が所々パワフルに亀裂してなければ、あの地震の存在など嘘のように快適な部屋に入ると、万年不眠症な筈が、いつ以来か翌日を跨がず眠りについて、朝7時を告げるほんわりした地域のサイレンで目が覚めた。切り取った窓の外から見える長閑な港。静かな凪。此処にはこれまで平和な日常が確かにあった筈と思わせる美しい光。まだ日は登ったばかりだ。

 

 共有スペースで偶然顔を合わせた一人の男性は、テレビなどで拝見した事があるフリーのジャーナリストさん。地震以降度々奥能登での地道な取材を重ねておられるそうだ。 「いつもはレンタカーだけど、今回は公共機関を使って移動してみてます。電車もない、バスも早々ないから効率は悪いけど、その方が地域の人と出会えて色々話を聞かせてもらえる。それに、普段の皆さんの生活が感じられるしね」。

 こんな名の知れた人でも、一人自らの足で取材を重ねておられるんだと感銘を受けた。

 

 すぐ側にある「道の駅狼煙」で名物の蕎麦や塩、豆腐等を買って、「いつもSNSみてます。文章がすごく明るくて弾けてて、良いなって思って」と伝えると、書き手の若い女性が照れ臭そうに笑う。「もう、暗い話はいいかなと思って」。

 地震と水害で度々休業せざるを得なかった中を何度も乗り越えようとする健気さ。こうしてせめてもSNSのコメントなんかじゃなく、書き手へと直接思いを伝えられた事に安堵した。

 意味じくもゼミ当日の9月21日に発災した能登水害で、右往左往して逃げ帰って、その後のニュースでひとしきり感傷に浸った自分の弱さに、私は地元の皆さんの人間力に日々励まされ、そして癒されているのだ。

 

 その後、今回の企画イベントの会場となる、小泊保育所跡へ。

 ゼミの仲間でまずは丁寧に大掃除して、イベントのシュミレーションをする内、みんなの快活な笑顔が空間に響く。本イベントをやる事の意義を互いに感じ合えているという実感が沸々と湧いてくる。ワークショップを行う部屋の切れた蛍光灯を、チームの一人が使われていない部屋から差し替えで付け替えてくれた時、一斉に歓声が湧いた。みんな、部屋全体の明るさを感じて何かが見えた気がしたんじゃないだろうか。わずかこれだけの事かもしれないけれど、既に何か大事なことを成し得た心地。

 誰一人として欠くことの出来ない、心優しいパーソナリティを備えた素敵な仲間。こうして人と人として近づくことが出来て、嬉しくて仕方なかった。

 

 開場前から一人、二人とお越しになられる。

 遠方から奥能登芸術祭のその後を心配されてこの機会にと来られた方、隣接する仮設住宅で仮住まいされるご婦人方、一人歩いてやって来たという中学生の勇気、近隣の方、 保育所にゆかりのある方々、歴代マイスター終了生など、まるで夢のように、思い描いていた通りのお客さまたちが次々来られる。弾けるような笑い声が時々沸き起こる。ふと覗くと誰もが良い顔をしている。

 倒壊した山本基さんの作品も、窓越しの明るい日差しに照らされて悲壮感は全く無い。イヤリングを作った人たちは大抵、その場で耳元を飾る。そんな彼らの後ろ姿を見送りながら、塩の結晶が封じ込められた小さな作品がキラキラと輝きを放って揺れているのが微笑ましく、そして頼もしい。

 

 一方、私はメッセージコーナーの椅子に座って、すぐ隣の集落で被災され家を失われた3人のご婦人方と話をした。それまでとても快活そうで、一見何処にでもおられるお母さんたちだけれど、一つ二つと話すうち、途 轍もない経験を経て拭いきれない気持ちを吐露され始めると止まらなくなった。

 「経験したもんでないと、分からんと思う」と、こうして人に話すことに果たして意味があるのかというような戸惑いのある表情で、「例えるなら、私ら戦争体験者じゃないけど、きっと戦争の状況と同じと思う」と仰る。

 「だって集中砲火の爆撃受けたみたいだもの。私の家なんか、木っ端微塵。みんな、自分の家は全壊判定とか言うけどあんなのは全壊じゃ無い。まだ建ってるだけマシ。私は、大切なものを全て失った。残ったのは、な んとか瓦礫から見つけた仏壇のおりん一つだけ。」「亡くなられた人も、随分長い間、安置所すら無くてね。ただ番号振られるの。野晒しだからせめてお布団を掛けてあげて、毎日毎晩ずっと見守っているしか無かった」。

 そんな、あまりにも過酷な状況を伝えてくれる。そう言いつつ、「こんな嫌な話聞かせてごめんね」と気遣われるのだ。

 そしてこうも言われた。「与えられた命だから、きっと意味があるんだと思う。そう思って、なんとか、みんなの分も生きようと思う」。

 帰られる際に私ができたことと言えば、お母さんたちの手を握って「これから寒くなるから、お体だけは気をつけてくださいね」という陳腐な言葉。するとお返しに、「こんな風に、保育所を使ってくれて嬉しい」「ありがとうね」とまた笑顔を返された。

 「私らの子供も、ここの保育所でお世話になったの。ああもう随分昔のことねぇ!」。

 

 悲喜交々とはまさに、このような1日だと思う。

 誰かが悲しい時はその思いを受け止めて、誰かが嬉しい時は一緒に笑う。 それぞれの心内や抱えている背景は全く違うけれど、同じ場所に集い、少しづつ形は違うけれども共に共感し合える何かを育む。仮に意味や成果を問われればそこには何も無いかもしれないけれど、生きることで生じるお 互いの確かな恵みって、そういうものなんじゃないだろうか。

 

 かつて若い頃に自分の師匠らに言われるまま、阪神淡路大震災の時に炊き出しを行った際、その我々行為の偽善さというか、噛み合ってないような心地に後ろめたさが纏わりついたのを思い出す。主体性のない一方で真っ直ぐ過ぎる正義感という己の矛盾に戸惑った日々。その迷いすら、人と人とを思うときには正解も不正解も無く、意味の無いことへの不安の先への一歩の大切さを、長い時を経てようやくたどり着いた気がする。

 

 ただ、私たちはこの日、ちょっとだけ普段の1日とは違うささやかな1日を皆さんに提供しただけかもしれない。けれどひょっとすると、とんでもない可能性を秘めた1日を創り出せたのかもしれない。

 だから、始まったばかり、ようやく見え始めた光をまた失わないように、何度でも、諦めず、よくあの1日のことを咀嚼して、記憶して、繋いでいかなくてはなと思う。

 

 今更にして、山本基さんの作品に対するコンセプトを読み込んだ日々とその言葉たちが、あの青地に白い複雑な線のように何処までもリンクする。

まるで予め定められていた不可思議で、失うことへの抗いと、忘れ難き記憶を手繰り寄せるかのような、生かされた私たちがこれからも生きるための、大切な、大切なシナリオのようだ。

 

 そうきっと、あの閉ざされた保育所には未だ活かされるべきものが存在していることを、決して忘れないために。

 

※2024年12月7日開催の能登里山里海学会・ゼミ活動報告スライドより一部抜粋。(その他ページは各ゼミ生による発表文章にて、著作権確認必要につき)


記憶するための追記。

 12月7日には、珠洲市内にある「らぽると珠洲」において、能登里山里海学会が開催され、午前中は各ゼミの成果発表、午後からは能登ゆかりのマルシェやワークショップが開催された。私たち山本ゼミチームは再び、アクセサリー作りのワークショップを行う。

 その前に前泊し、初めてマイスタープログラム受講生及び修了生が集まった懇親会が開催された。

 乾杯の際もその後も、どう見てもお酒が好きそうな筈の受講生に酒を勧めても頑なに呑まない。理由を聞くと、今年の元旦から、酒を辞めているという。

 「あの正月で、そりゃあいつもの様にベロベロで、避難するの、大変だったんですよ。だから、また地震が起きても無事に家族を守って逃げられる様に、呑まないって決めたんです」と言う。「また正月に地震が来たらと思うと」と呟かれる。
 多分、殆どの日本人が、1年で最も気を抜く、めでたい筈の元旦の日に起きた非情な出来事。能登豪雨はお彼岸だった。世界を見渡せば様々な苦難があると云われども、流石にあんまりだと思う。

 大事な家族、大切な故郷、大事な家や実家を無くした人が居る。朗らかに笑おうとする目には、誰にも向けられない深い怒りや悲しみの色が混ざっている。

 私にはとても、返す言葉が見つからなかった。

 

 今回のアクセサリー作りワークショップでは、沢山の参加者の中にも、地元珠洲から前回を含めて最年少の、3歳の妹と未就学のお兄ちゃんが参加してくれた。

 熱心にレジン型に流す小さな肩を、お父さんが支えている。
 「地震の時、お子さんたち、泣かなかったですか」と尋ねると、「それまでに結構地震が頻発してたので、慣れてたのもあるんですよね。元旦の地震も、最初の揺れではいつものことと、家族で机の下に隠れて収まるのを待ちました。でも、机から抜け出したらもう、これまでなんかとは全く違う。地獄絵図でしたよ」と仰られた。
 こんな小さい子たちも、受け止めるしかなかった現実。兄は最初四角いアクセサリーを、妹は丸い地球のようなアクセサリーを作った。妹ははしゃいで、ひとしきり遊んで寝落ちすると、兄は負けまいと再度、次は丸いアクセサリーを作るんだと言い出して、椅子にずっと座って順番を待ってくれた。

 

 


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