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写真というものに残すこと。「アメリカに暮らす日系人親族の記憶」

アメリカ西海岸。日系1世の大叔母の思い出。


 元来、「写真」というものは、昨今のようにデジタルデータによって記録されたものを指すのでは勿論無く、印画紙に焼き付けられたもの、つまり1枚の紙に浮かび上がった像を指してはじめて「写真」と言ったと思います。

 今日のデジタル化によって、私たちは日常、あまりにも多くの写真を見て、撮影して・・・ということが成されていますが、印画紙に焼き付けられた写真を実際に手に取って「そうそうこの時はね」と、まるで1枚の写真が記憶の引き出しとなるような、そんな大切な感覚をつい忘れがちなような気がします。

 膨大なページに及ぶ、まるで通販カタログをめくるような感覚で写真を素通りするのではなく、時には1枚の写真にまつわる記憶をじっくりと辿ってみる。。。

 これは、撮る側である私もきっと、ただ「貴重」、もしくは「希薄」にとらえた光景として、写真のコマを連打するのみにとどめることの、ないよう。

 普段あまりにも多くの写真をとらえてばかりいる、これは自分への戒め、そしてあまりにもパーソナルな写真考です。


「父の叔母についての記録」

 

 特に我が谷口の親戚女性陣にとっては尊敬してやまない存在である「もよ」叔母さんという、一人の親族がアメリカに居ます。私にとっては大叔母で、父にとっては叔母、私の祖父の姉にあたる人です。

 戦前の頃。大叔母は結婚して間もなくご主人に言われるまま、彼女が20歳の時に夫婦で開拓移民として、1920年代にはるかアメリカへと渡りました。

 今とは違って勿論飛行機は無くて渡航手段は船のみ。外交官とか、貿易関係とか、そんな特別な職種に就いていたのではまさかありません。夫婦ともに、積年の火山灰で土地の痩せた、年中風水害に悩まされる鹿児島の農家の出です。

 異国での豊かな生活を謳うおとぎ話のような情報しか持たず、向こうになんのツテも無い中、実際にはまるで未知の、かつ当時強い人種差別のあった異国の地へと、これまでの貧しくギリギリの生活を打破するために旅立ちました。勿論、英語など話せるわけもありません。

 確か1ヶ月程船に揺れて最初のかの地。辿りついた時果たして、どんな胸中だったのでしょう。

 この写真は恐らく、渡航して間もない頃に向こうで撮影したものです。こんなにもきちんとした写真を撮って、郷里への手紙に添えました。田舎で暮らす親族たちに対し、この写真でもって、要らぬ心配をかけたく無いという配慮、あるいは固い決意表明のようなものだったのでしょうか。

 北米に渡った日系人らの歴史を調べると、韓国系アメリカ人や中国系アメリカ人などと比べて、民族街に集結したり、表立った相互扶助を行うことは少なかったと記述されています。第二次世界大戦において日本がアメリカの敵国となり、移住国への忠誠を示すために、あまり日系人としての民族性を出さず、アメリカに同化するように努力したと言われています。このような記述に触れると、一方で生涯に渡り母国の日本、故郷、家族に強い思いを寄せていた大叔母の秘めたる心の中は、私のような者にはとても想像が出来ません。

 ちなみにこのように写真がブック仕立てになっているのは、私の父が亡くなった際、親族の中で最も先祖の歴史や繋がりに対して意識が高い父の弟である叔父が、方々の谷口家に散在していた古写真群を集めて、作って下さったものです。

 この手作り写真集をめくると、写真の一枚一枚から、生きて逢った事の無い遠く繋がる先祖、親族の記憶まで、もろもろ辿る事が出来るのです。


大叔母とその子供達。

 大叔母は向こうで男1人女4人の子宝に恵まれました。ところが子供達がまだ小さい頃に、ご主人が病気で亡くなってしまいます。折から日本軍による真珠湾攻撃、第二次世界大戦に対するアメリカへの宣戦布告によって、合衆国市民であった状況が一変。アメリカにとって敵国民である日系人は、人里離れた砂漠や山岳地帯に急造された強制収容所にもろとも収容されました。女一人、子供5人を抱えての異国での強制収容所生活とは、一体どんな暮らしだったのでしょう。その後、長男は朝鮮戦争にてアメリカ兵として従軍しています。

 高校3年の時に初めてアメリカに訪ねた時。その頃の話を聞き出そうとして、色んな角度から話を振りましたが、遂に大叔母は収容所での話はしてくれませんでした。娘が若い頃にミスカリフォルニアになった事(日系人での選抜は名誉だったのでしょう)、孫が水泳のジュニアオリンピックで金賞を穫った事、孫がこの度ビバリーヒルズでセレブ向け高級美容院をオープンする等、自身の家族にまつわる話は、そのような明るい話しかしませんでした。決して、弱音を吐く事をしないのは、「薩摩おごじょ」の気性なのでしょうか。


89年と90年。大叔母に会いに。

 私が小学4年の頃。大叔母が長女を連れて日本にやって来ました。初めて逢った時の大叔母は、パンツスーツにヒールを履いて小柄ながらも颯爽とした姿で、子供ながらにその、日本に居る同年齢の方々に比較して断然格好の良い姿に圧倒され、また横に座るととにかく優しく、子供のつまらない話をずっと聞いてくれる人柄に夢中になりました。

 両親が大叔母達を京都の観光案内をしている最中、私は小学校を休ませてもらえず、私ももっと一緒に過ごしたい、大人だけズルいと悔しくてたまりませんでした。

 その頃から執念深く、大きくなったら絶対アメリカに行って大叔母さんに逢うんだ!と訴え続けて、ようやく高校3年の夏に、わがままを通してアメリカに行かせてもらいました。

 大叔母はあたたかく迎えてくれました。そして今度来る時は絶対に、親を頼ってまで来ては駄目だと言いました。私が生きている間に、自分でお金を貯めて来なさい、と。

 加えて強く言われた事は、アメリカに来てくれるのは嬉しいけれど、本来身近な筈の疎遠な国内の親戚にも会って、大切にしなければならないよ、と言われました。
 同じ国内とは言え飛行機で大陸を横断しなければならないアメリカにあって、家族が何かの度に集うことを大切にして居る大叔母を前にして、私にはなんの言い訳も出来ませんでした。


大叔母の家近く。

 滞在中にはとにかくあちこちと一人で出歩きたがる私を、大叔母は心配してちょっとでも遅くなると、この光景が見える大通りまで私の姿を探したそうです。

 一方、私はというと、バスに乗ったり自転車を借りて走り回ったりして、色んなものを目の中に入れるのに躍起でした。あるバスでは運転席いっぱいにどしんとした体格の黒人の女性運転手が、マニキュアをした長い爪も器用なハンドルさばきの運転をしていて、バスの中でいかめしい人達にからまれた私を、大丈夫!側においで!と頼もしくかばってくれました。

 そんな、こまごまとした記憶すら、写真1枚でありありと思い出されます。


リトルトーキョー

 もともとは砂漠だった所に一大都市が築かれたロサンゼルス。その中央のダウンタウンに、リトルトーキョーと呼ばれる一角があります。

 後で色んな本を読んで分かったことなのですが、この場所は日系1世にとって、かけがえのない心のよりどころ、とても大切な場所だったそうです。

 が、当時の私にはただ、砂漠の中の、なんちゃって日本のような、まるで京都の太秦映画村のような、なんだか閑散とした印象でしかない場所に見えました。

大叔母の家。

 この西海岸の典型的な平屋が、大叔母の暮らす家ですが、裏は大叔母がこしらえた日本風のお庭になっています。白砂や石灯籠なんてどこで仕入れたのか、西海岸の情緒無い空の下、なんとも折衷な、郷愁あふれるお庭が広がっていて、胸がちょっと詰まるような気持ちがします。

 財も持たずに異国に来て、伴侶に若くして先立たれて子供5人を抱え、戦争中は収容所暮らし。そして現在はこのようにアメリカに居を構えていらっしゃる・・・。ましてや戦後。祖国である敗戦国の日本はどんなにも酷い事になっているであろうと、たくさんの薬や食料をつどつど郷里に送り、毎年のクリスマスには50ドル(約18000円。当時の日本人初任給平均が約10000円位の時代)の仕送りをかかさなかったのだそうです。

 子供だった父は、叔母から当時送られたパイナップルの缶詰を食べた時、あまりの美味しさに「そりゃあ日本、戦争負けるわ」と思ったそうです。

 この写真の、家の前をほうきで掃いている、こんなにも小さな体の人が、大叔母です。


同世代頃の大叔母の孫たちと。

 ちょうど大叔母の孫達と、私は似たような年齢だった事もあり、滞在中は買い物に行ったり、映画を見たり、パーティーをしたり、一緒に海岸の小屋でぼんやり夕焼けを眺めたりと、すぐに仲良くなりました。

 3世の彼女らはファッションのせいか、日本語が話せないせいか、それとも環境風土のせいか、顔立ちが日本人というよりアジア人、といった風情でした。が、体型だけとってみると、背は私よりずっと低くて、古式ゆかしい日本人のコンパクトな体つきをしていました。

 ある日のランチタイムの時、英語力の乏しかった私に向かって「hungry?」を和訳して「ひもじい?」とたどたどしく尋ねてきました。その、日本ではもはや死語な表現に驚きましたが、これはきっと、おばあさんから教えられた日本語なのだと思いました。

 たまらなく死にそうな程、お腹が減り続けているのに、本当に何もかも無い、という事があったのだろう大叔母の言葉。


サンタモニカビーチ

 1989年と90年に訪れた時は、共に約1ヶ月程滞在しました。その間にたった1度だけ、夜に、それも熱帯の島で見られるような、数分の激しい雨が降りました。丁度みんながベッド入る頃、誰もタバコを吸わないのでこっそり家の庭でタバコを吸っていた時です。屋根から落ちる激しい雨水で火を消していると、「明日は街がきれいにみえるよ」とおばあさんの孫娘がやってきて言いました。

 この前はいつ降ったの?と尋ねると、I can’t rememberと言われました。雨が降るたびに憂鬱がちだった10代の私には、まるで夢のような国でした。

 けれど想像してたよりもずっと、同世代の孫たちは羽目を外すと言えばパーティーの時ぐらいで、電話は高校生になれば自分の部屋に引いてもいいけど電話代は自分の稼ぎで払う、酒は21歳まで買えない、バーにも入れない、タバコもまず吸わない、卒業したら実家に住むなら家賃は入れるなど、当時の我々日本の高校生、あるいは自堕落な自由の中でぬくぬくとしていた私には考えられない程、真っ当で本当の意味で自律した10代だと感じました。


ダウンタウンの光景

 今は少しは改善されているのか、当時のロサンゼルスの中心部となるとあまり治安も良く無くて、ザラついた光景があちこちに見受けられました。大叔母達は私を、いわゆる観光名所であるユニバーサルスタジオやディズニーランド、ナッツベリーファームなど、健全なアメリカの側面が堪能出来る所へ連れてくれました。が、好奇心いっぱいの当時の私にとっては、そうでは無くてよりリアルなもの、このような風景が見たくて見たくて、たまらなかったのです。

 この写真を約四半世紀ぶりに手に取りましたが、つくづく、自分の見たいものは今も昔も全く変わっていないのだな、と思いました。

大叔母さん米寿のお祝。

 80歳の「ミシンに糸を通しづらくなるまで」アメリカで覚えた洋裁で、婦人服のオーダーメイドをしていた大叔母。働いて働いて、子供達を育てました。田舎の長女で20歳までろくに花嫁修行もせずに異国に渡った訳ですから、料理も日系コミュニティの中で覚えたのでしょう。当時、日本では既に見る事の無かった古い型式の炊飯器を大事に使い、肉団子のように小さく丸めたおにぎりをこしらえ、味噌汁はシチューのようにグラグラ煮立たせていました。

 大叔母は英語がついぞ話せませんでした。2世になる彼女の子供達は、日本語と英語が両方話せます。大叔母の家は、典型的な西海岸の平屋スタイルでしたが、家の中はこのような和洋折衷。金色のちゃんちゃんこにお祝いバルーンで、誇らしげな顔が印象的です。

 異国の地にあって祖国への思いは深く、同胞コミュニティや家族の結束は静かながらも大変強固と見受けられました。盆踊りや餅つき等、日本では遠のきつつある季節行事を遠い記憶を辿って出来る限り再現し、子供や孫らに対し、母国のルーツや文化を伝えたかったのだと思います。


大叔母。3世の孫たちに囲まれて。

 日系とは言え2世で日本語はギリギリ、3世にもなると、日本語はほぼ話せませんでした。英語の話せない大叔母でしたが、ヒアリングは全て問題無いらしく、孫は英語で、おばあさんは日本語で、という会話がなされていました。

 この3世の中で一番年長の孫娘さんは子宝に恵まれず、日本の、おばあさんの郷里の鹿児島まで出向いて、乳児院から養子に子供を二人迎えました。

 当時4世まで、西海岸を中心に家族は住んでいましたが、今はきっと5世に渡っているでしょうね。。。


一方の私。

 89年と90年の2度に渡ってアメリカを訪れて、そこでしばらく滞在していると、若いさかり、当初の目的であった大叔母との交流も少々道をそれて、ただただ気ままに、好奇心の赴くまま、そこでの時間を満喫していたように振り返ります。

 実はそうも簡単に、ここを訪れる事は叶わないという事、そして再びかけがえのない人達と、逢えることはそう叶わない、なんて事は思いもせずに。


ダウンタウン

 私が高校生の頃、日本でいわゆる「使い捨てカメラ」が発売されました。

 今どきの子供達にとってスマホが必需品、携帯カメラはそれのごとく、当時の女子高生の鞄の中の必須アイテムがこの使い捨てカメラでした。

 今の自分だと一世一代の旅の記録アイテムに、このようなおもちゃを選ぶのはとても考えられない事ですが、当時はまるで写真を生業にするなんて思っても居ず、写真というものが、どれだけ記録の媒体として貴重なのかを分かってない頃のことでした。あるいは、自身の記憶を写真以外のもので補うことに一方で妙な自信があったのかもしれません。ですので、このアルバムに載せたカラー写真は全て、使い捨てのおもちゃカメラで撮影しています。

 この写真は大叔母とその娘さん達と一緒にダウンタウンに向かう最中の車窓から見た光景です。

 車無しではいられないロサンゼルスの広大な平地には遠く、ニョキニョキと高層ビルが建ち並んでいました。

 時は日本のバブル期。たくさんのビル群を指し、当時ビジネスで成功をおさめていた娘さんの一人が「ここから見えるビルは、ほとんど日本企業のものよ。あなたも日本語と英語が話せたら、アメリカでビッグビジネスが出来るわよ」と、誇らしげに語っていました。

 今も肌身離さず身に着けている父のくれたネックレスに通したペンダントトップは、この娘さんから当時記念にと頂いたものです。

 お守りのように、いろんなことを覚えて居るように、時々指で触って確認しています。



「90年に訪れた時の最後の写真」

 

 この写真は、帰路、空港まで送ってくれた大叔母とその孫娘とのお別れの時のものです。

 ゲートギリギリの所で、最後の写真をとっさに撮りました。何度振り返っても大叔母はずっと、見送ってくれていました。小さくて、大きくて、強く厳しく優しい大叔母はずっと微笑んでいました。この時の感覚を忘れたく無い一心だった事は記憶しています。

 使い捨てカメラは、像を見る所と実際に撮るレンズが違うので、覗いていた時と出来上がった時の写真の視点がずれて、特に近景ではパララックス(視差)という現象が起こりますが、そんな事より何より、構図の甘さというか、最後の、とても貴重な瞬間であるというのに、写真的には目も当てられないほど最悪な仕上がりで、今の自分ならいくらなんでもありえないなと、その視点や意思の視差には、まるで生涯続く戒めのように、とても苦く切ない気持ちになります。それと同時に、このピントも曖昧でハラハラとした写真であるからゆえに、その時私がどのような心境であったか、思い起こすことも出来ます。

 有馬もよさん。

 大好きな大叔母はその後、1994年12月4日に亡くなりました。

 娘さんの手紙。「彼女の最後の一日は、とても穏やかで幸せでした。ちょっとお昼寝をしているそのままに。眠ったままなくなりました」。

 

 帰国後、大叔母から託された方々へのお土産配りは大きなきっかけとなり、郷里を出て京都に移り住んだ放蕩長男である父に追随したまま、そう疑問も持たずになんと無く交流が薄かった親戚づきあいが始まりました。郷里の家に昔からある梅の木から獲った梅で梅干しを漬け、それをアメリカの大叔母に送りました。大叔母はとても喜んで食べていたとも、手紙に書かれていました。
 子供の頃に逢った時は、「亡くなったら郷里の地で眠りたい」と強く語っていた大叔母ですが、私が二度目に渡米した際には、その前に突然亡くなってしまった娘さんの居るお墓を指して、「もうちゃんと自分の分も準備してあるのよ」と言っていました。

 それはよくありがちなアメリカの土葬墓地では無く、白い石造りの荘厳な建物の中、ガラス戸の本棚を模したものが整然と並んでおり、そのガラス戸のひとつ毎に家族が収められるという、クラシカルかつコンセプチャルな、デザイン性の高いセメタリーでした。本棚には、辞書の形をした石造りの骨壺が書庫のように並べられるという感じです。その一角に、娘さんが居る素敵な辞書の形をした骨壺がありました。

 一緒にお参りをした時には、娘さんに先立たれた深い悲しみが心境の変化をもたらしたのだろうというふうにしか察することが出来ませんでしたが、今振り返って大叔母の人柄やこれまでの生き様を思えば、ただ悲しみというだけでなく、我が身をもって子供たちや孫たちの故郷としようと決意した、大いなる親心だったのではないかと感じずにはいられません。

 こうして、大叔母がどんなところに眠って居るかは今もはっきりと思い出せますが、しかしながらそこが西海岸のどこだったのか、私には思い出すことは残念ながら出来ません。

 

 ともあれ、この、どうしようもない写真が、私にとっては大叔母との本当に最後のお別れだったのです。


写真。曖昧な私の中の、伝えたい思いと、決して忘れたくない記憶の補完として。

 この写真は当時アメリカに行った際に撮った、ありがちな工事現場に貼り出された映画ポスター群を捉えたものです。
 勿論、前述通り使い捨てカメラで撮影したもので、帰国後、親友に見せた際、とても褒められた写真でした。

 心象風景とか、日常の光景とか、そういうなんでもないものも被写体にする。。。という事など考えも及ばなかった頃どころか、まるで写真を撮る事など、ましてや自分が写真家になるなど興味も意識も無かった頃ですから、今から考えればとても不思議な気持ちになります。

 現代のように、スマホや携帯カメラで何をも被写体にすることが当たり前だった時代でも無く、故に何か媒体や流行に感化された訳でも無いにもかかわらず、当時の写真を振り返ってみると、記念写真などに混ざって確かに、今の自分の写真表現に繋がる思考が見られるのも、またそれを当時とても面白がってくれた親友にも、後追い的になりますが、写真を撮るということの縁というか、これが始まりだったんだろうなと思えてなりません。が、当時は褒められたところでそれは終わり、以降あまり考えもせずに、帰国後、何者になろうやと悶々とする中、流されるままに偶然出会った写真家の誘いでアシスタントになり、今日にまで至っています。

 思えば使い捨てカメラという、ある意味では現代の写真表現と同じように、写真をより安価に、より気軽に撮れるようになったボーダーな時代をクロスし、過渡期的な時代を起点にスタートした私たち世代は、だからこそ写真に残すことの意味について、今一度振り返り、考えてみたいと思うのです。

 しかし、現代のように一方では写真が加筆され、加工されることすら容易で、リアルさの遠のく今となっては、当時とらえたフィルム撮影による写真群には、失敗も後悔も懺悔のようなリアルな記憶ですらも、ありありとその瞬間に辿り着くことが出来ます
 これらを思う時。私には大叔母の存在も、そして大叔母と共に過ごした時間のひとつひとつも、今に至る私なりの写真表現とは何かを考える大変大きなきっかけとして、また振り返りの機会として、あるいはこの仕事を生業とする意思やその信念に対し、ずっしりと心に留まっているのだと思います。

 ありがたくも今、生かされている自分が、社会への責任を果たし、また貢献できることを。

 それらをきちんと、写真によって。

 

3歳頃の私と、おもちゃのマイファーストカメラ。
面白いことに、父親がカメラ構える姿を真似て、

縦位置の写真はおもちゃカメラを縦に、

横位置の写真はおもちゃカメラを横に、ちゃんと構えて居る。

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