清水焼発祥の地である五条坂で毎年この時期に行われる、六道珍皇寺の精霊迎えのお参りに来られる方らを目当てに、大正9年より始まったとされる陶器市。
子供の頃は毎年、母親と一緒に出かけるのが恒例だった。暑い最中の女の買い物に男兄弟が付き合うはずもなく、かき氷一つで喜んでついてくる私を伴って、買うやら買わんやらで行ったり来たりの買い物についていきながら、私なりの好みの器を探してみたものである。
京都市最大の東西路線である五条通りは幅約50メートル。陶器市は五条坂の交差点から川端通りまでに渡って歩道にぎっしり露店が賑わうので、往復すると結構なお店が見て回れる。
昭和19年、空襲による延焼防止と軍事目的のために1200軒が強制疎開された五条通り。
小学校の夏休みの日記で陶器市のことに触れると「五条通りの道幅が広いんは戦争中に滑走路にするためやって、ぎょうさん家々が引き倒されたんや。ほんで付け加えるとな、陶器市はもう、ええのは先に料理人さんらが買うてしまわはった後で、その残りもんやぞ」と先生に言われて、どちらもなんとも言えない気持ちになったものだ。
しかし、私にとってはうだるような暑さの中をそぞろ歩いたことも、そんな中ではかき氷が一層美味しく感じたことも、透かしの入った陶器の繊細さに感動したことも、帰り道の、その頃から混んでいた206番の市バスで立ったまま、重くて指がちぎれそうになりながらも必死でかばったビニール袋いっぱいの陶器も、全ては懐かしい思い出である。
そういえば、貧乏地方公務員家庭の我が家ではあったが、身近に使うお茶碗は割れずとも、毎年陶器市で買ったものに替えられていたなと振り返る。
昨日あまりにも久しぶりに、仕事帰りに五条坂の陶器市へと立ち寄った。
夏の日中は勇気がなくて遠ざかっていたが、夜ともなるとさすがに少しは歩きやすい。
しばらく来ない間に、昔のような全国産地の問屋さんが出す露店は随分少なくなり、替わって全国から集まった作家さんが自ら手売りする露店が増えている。よって地元感は更に無くなってしまったが、おおよそ、展示のセンスも良くて手作りの簡易展示什器も洒落ている。これは昨今全国で行われるクリエイターマーケット等で磨いた、魅せる力のおかげだろうか。
しかし、車で通り過ぎていては気づくこともなかった様変わり。有名産地の問屋さんも、本家・清水焼の店も、随分彩度が奥まってしまっている。あの、どうしようもない器の山から選ぶ、キラリと光る宝物探しも、楽しかったんだけどな。。。
夜の陶器市は、わずかな照明にてあまりよく器が見れない。
けれど、その暗がりに落ちるかすかな面影をたどるには、充分な光量であるとも感じた。