新幹線で名古屋。そこから特急に乗って「飛騨古川」まで仕事にて。
ところで、「飛騨」と言われればまず「高山」を思い浮かべる人は、決して私だけではないんじゃないでしょうか。
同じ藩主によって築かれたことでよく似た都市構造を持ち、高山と古川は「双子の城下町」とも言われるそうです。しかし古川は、歩いてみると高山とはまた違った何かを感じます。観光地化された高山と、より暮らす人の生活の匂いがする古川、というのが両者の比較の第一印象かと思います。
ちなみに歴史を紐解くと、ここ飛騨古川は、高山よりも歴史は古く、高山に城下町を定めた金森長近が、それ以前に古川に小規模な城「増島城」を築いたのが都市形成の始まりだそうです。
街角に掲げられた「飛騨古川の町並み」を紹介する立て看板にはこう書かれていました。
「飛騨古川の町屋の多くは、かつて奈良の都の建造物造営に活躍したと伝えられる『飛騨の匠』の技を今に受け継ぐ地元大工の伝統的工法によって建造されています。周囲との不調和(そうば崩し)を嫌う住民自らの意志により、古川独特の建築意匠で棟梁のシンボルでもある軒下の彫刻装飾『雲』や出窓、出格子、土壁などが施され、統一感があり懐かしさを思い起こさせる美しい町並みを形成しています」。
紹介文の中の「そうば崩し」という耳慣れない言葉に、その意味を知りたくなりました。
この「そうば」とは、漢字にするとまさしく「相場」であり、そのまま取れば金融界の用語のように思いますが、古川にとっての「そうば」は「金」を指すのでなく「町」の相場のこと。「伝統の町並みを崩すようなみっともない建物は建てない、建物を通じて近隣の和を保つ」という意志が示されており、「相場崩しを嫌う」とはすなわち、周囲との不調和なものを建てることを、古川の人々は良しとしない、という事なのです。
このそうば崩しについてネットで調べていると、とある金沢の建築士さんのブログにあたりました。考察が素晴らしかったので以下引用します。金沢の方ですから文章の締めくくりには地元のことで結んでおられますが、ここ数年来、短期間に我が地元京都でもあちこちにクレーンが空を伸びる光景を目にし、「和風」「京風」の体裁だけを取り繕った建物が次々に姿を表す昨今において、これ以上の言葉など、自分のような専門外の人間かつ、感覚だけの無知者には言い当てられる言葉が見つかりません。
「なかなか含蓄のある言葉です。いま景観法が制定され全国で景観づくり、美しい国造りが進められていますが、ここでは細かい規定があるものの法律を貫く精神的な支柱がないように思います。単にきれいな街を創ろうというのではきれいにお化粧しようといっているのにすぎません。『相場を崩してはいけない』という言葉には地域社会の原点があるように思えます。こういった住民のコンセンサスがあれば街の景観について細かい規定など無用です。
ここ金沢でも何か地域社会を守っていこうとするこのような核になる言葉がほしいものです。金沢はいろんな時代の建築が積層され時代の断面が見える街だと言われます。常に新しい血が入っている街だといえます。新しい意味ある『相場崩し』の建築ができそうした積み重ねが年輪のごとく街を形作っているのです。ですから『相場崩しはしない』という言葉を理解したうえでさしずめ「相場乱しはしない」なんていう言葉が金沢に相応しいように思います」。
引用先リンク↓
「飛騨の匠」と呼ばれる飛騨地方の大工は、奈良時代から技術の高い事で知られ、米や塩、絹や布が免除される代わりとして大工の提供が求められていました。この飛騨の匠の発祥地の一つがここ、古川と言われているんだそうです。
古川の町屋に見られる特徴的な意匠には、先の看板にも挙げられているように「雲」と言うものがあります。軒を支える腕木の下に持ち送りが添えられ、その側面には波型や唐草模様が施されており、その姿は家々によってまちまちですが、総称して「雲」と言うそうです。
元々、飛騨地方では軒下の垂木や腕木の木口が白く塗られており、それは防腐と装飾を兼ねていました。やがて匠が自らの署名代わりに彫った「雲」なのですが、それらが流行りだしたのは昭和29年ごろからなのだそうです。ですから、この「雲」の装飾が無い、木口が白いだけのものはそれ以前の建造物ということになるので、全体に調和のとれた町並みも、実際には年代の全く異なるものがなだらかに続いている、という事になります。
町屋が続く路地には、宮川から引かれた水が勢い良く流れる瀬戸川の清流がぐるり囲んでいます。その瀬戸川には、丸々と体格の良い見事な鯉がたくさん泳いでいます。この鯉は、瀬戸川の清流を美しく保つための秘策として地元の子供達に放流させたのが発端とのこと。雪深い冬の時期には、瀬戸川はまた融雪溝の役割を果たすため、鯉は越冬地に疎開されます。
米の収穫が終わり、本格的な冬を迎える頃になると、ここ古川でも日本酒造りが始まります。
今回私が仕事でお邪魔したのは古川で昔ながらの蔵人の製法を守る日本酒の九代続きの蔵元。これまで日本各地の酒造りの現場をあちこちで撮影させて頂き、毎回地元自慢の食事処に連れて頂く事が多い中、初めて、杜氏さんの寮にて、皆さんの輪の中に混ぜて頂き、同じ釜の飯、お鍋をご一緒させて頂きました。
お隣の席につかれた大杜氏は、酒造り集団の岩手は「南部杜氏」。高校を卒業してのち修行を重ねて約50年。1年のうち7ヶ月、酒造りのため地元を離れ、蔵で共同生活をし、酒造りが終わると地元に帰って米作りをするという生活をずっと、営まれているそうです。地元に残して離れて暮らすご家族に対し、「私がこうしていられるのも母ちゃんが元気で、家を守ってくれているおかげ。震災の時も私は地元におらず、家族が家を守ってくれた」と話されていました。ご披露下さった仕込み唄や宴席での唄の、澄みつつも渋みのある声と、歌声の彼方、遠く視線をやる眼差しには人生の深みや憂いを感じてやみませんでした。
今回お世話になった蔵元では、この時期大杜氏率いる南部杜氏の方らと共に、古川の地元蔵人が一丸となって酒造りに勤しまれます。
米を作り、米で酒を作る。
蔵元の掲げるスローガンはこう記されていました。曰く「酒造りは、農業だ」。
いつしか、米も食べなくなり、酒も嗜まなくなり、故郷も遠く離れてしまった元農耕民族。止むに止まれぬこととしても、自己顕示にまかせて相場を崩してなんともなしばかりでは、いけないですよね。。。
今回初めて訪れた古川の町では、歩いて触れて、中にお邪魔して、とても勉強になりました。思い起こせば欧州の街並みも、個人主義、スタンドプレーを得意とする彼の国も、周囲とかけ離れた突飛な個人宅を建てることは無いし、外観外見で我が個性を最も発揮するなんてことは意外としないのに、調和を重んじるとか、周囲と肩を並べる事を自ら美徳とする日本人の暮らす家々が形成すべき街並みに、その一貫性を見出せないのは不思議な事です。
ここ古川の家々の軒先には、いずれも花の鉢植えや投げ入れの花籠がぶら下がっていて、素朴なお花が街道に揺れていました。誰が見るとも知れない野花を、外に向かって日々の動作で飾る人々の暮らす町は、家の中の一番いい場所で花を飾るのもやっとの我が身よりも随分、心のゆとりや豊かさ、美意識を感じました。通りにもチリ一つ落ちてない、掃き清められた一本筋も見事で、どこもかしこも凛としています。
そんな町にて年に1度、地元の人曰く「この祭のために1年働いているようなもの」と言われる、地元が誇る激しくも気高い「古川祭り」が毎年4月19日に行われるそうです。
これは雪深いモノトーンの町の姿共々、再度是非、訪れて見たいと思いました。
最後に、古川の町の整いにまつわる、地元住民の軌跡が良くわかる資料がありましたので、リンク先を貼っておきます。
http://www.mlit.go.jp/crd/city/mint/htm_doc/pdf/079hida.pdf#search=%27そうば崩し%27