大阪・難波の一等地に、とてもエレガントで、細部に渡り温かみのある造りの小学校校舎がありました。
市立精華小学校。「大大阪」と言われる大阪が活気に満ちた時代。町衆が大事な子供達のためと資金を募り、昭和4年に建設された校舎は、閉校後もその歴史的価値を賞賛され、保存活用を訴える声が多く寄せられました。しかしその志も、多くの卒業生らの思い出も、また子供達に寄せられた先人らの思いも、それら美しさとはかけ離れた向こう側、とても短期的未来のため、あるいは見えない利権の闇にのまれ、消えてしまいました。
お隣の京都で生まれ育った私がこの小学校の存在を知ったのはつい数年前のこと。そのきっかけは私の通った高校校舎に建て替え問題が浮上した時のことです。
「当然在るものがなくなる」ことに極めて耐性のない私が、自身の母校が解体されるそのプロセスに疑問が払拭出来ず、建築にも運動的なものにもまるで素人ながら保存活用に向けた活動(という言葉にはあまりしっくりしないのですが)を一人細々と始めた当初、あたたかく手を差し伸べて色々とご尽力くださったなかのお一人、「精華小校舎愛好会」にて活動されていた一人の建築家で、この小学校の卒業生で在る女性との出会いです。
その後、精華校舎には解体方針が着々と進む中に一度、そして解体工事が始まった時に一度、その女性が許可を取られた上で一緒に撮影に入らせてもらいました。
前置きが大変長くなってしまいましたが、明日8月1日から31日まで、大阪府立中之島図書館にて、「私の精華小学校写真展」が開催され、私もいくつか、写真の方を出展させていただきました。ぜひ、お近くにお越しの際には、お立ち寄りいただけましたら幸いです。
残念ながら、先にも述べました通り、私はこの小学校が小学校として現行使用されていた頃を知りませんので、写真はその閉校後の空気感でしか、写真に留められてはいません。本当ならば木目の美しい長く見通せる廊下を走る子供達、階段手すりを撫でながら友達を追いかける子供達、都会を感じさせない美しい採光の窓に照らされる教室の子供達、学び舎の声が響くその光景を眺めてみたかったなと思いました。
ともすれば自身の作品撮影にしばしば古い建築物をモチーフにすることが多いので、「谷口さんって『廃墟マニア』なんですね」と言われがちです。が、本当のところ正確には「美しいと思えるもの」や、「人の思いを感じるもの、あるいは擬人化的に、硬質かつ勿論人で在るわけもない物質が、人間という感情の柔らかい部分を発しているもの」に愛おしく思う訳で、そういうものが私の中で感じられない場合には違うのですよ、なんてそう長々と説明しても、写真をみてただ廃墟だとしか伝わらないならば、それは自分の表現の極まりが足りないんだな。。。と、モゴモゴと、半笑いして流していたり、しています。
今回、精華小学校の校舎を撮影するにあたっては、ただ美しい元学校校舎を撮るというのでも記録要素でも無く、極めてパーソナルな想いというものにどれだけ沿うことが出来るか、という事にとても思いを傾けて、レンズを向けました。それはどういう事が作用したのかと言えば、前述で登場した女性の、校舎での立ち振る舞いに大きく起因します。
2度の校舎への立ち入りは、その時期からしてもう今後の存在は絶望的と言えるタイミングでした。恐らくは保存活用運動が盛り上がっていた最中には、大変話題となり、また多くの方、多くの専門家らが運動に加担された事でしょう。しかし、結論が導き出されて一人、また一人と問題から去ってゆく中、最後の最後まで、その女性は一人、毅然と諦めずにおられたんだという印象を持ちます。
カメラを持って限られた時間で校舎を散策する中、その女性は淡々と特徴や見所を説明して下さいました。加えて説明しつつ、もう、壊される事を待っているだけの存在で在る空間に対し、ちょいちょいと、汚れている所を掃除されたり、あるいは窓が開いたままになっているのを雨が入っては床が傷んでしまうと気にかけたりされるんです。
2度目の際にはもう、解体工事が始まっていて、美しかった壁は見事に壊されつつあり、一部鉄骨がむき出しとなり、またあの美しかった階段も板がガチガチに剥がされる中、痛めつけられる一方の姿には私のような関係外の者ですら心が痛くて仕方ないのに、こそっと知らぬどこかに転売されるのであろうものは丁寧に外され、また別室に移動されていた素晴らしい意匠の照明器具や手すりやらを淡々とチェックし、解体業者のお兄さんとお話しして「建物が凄い頑丈やからなかなか壊れないって言われた」との情報を仕入れたりされていたのです。
何もかもを知る上でも決して、感情的にならず。泣かず、叫ばず、文句も言わずに淡々と。
言いたい事、溢れるもの、それはそれは多くあられた筈。が、その凛とせき止められた姿に私は、決して他者と分かち合うことの叶わない、あまりにも大切なものをなくした時の、個人の深い、極めてパーソナルな感情のようなものを、むしろ感じずにはいられませんでした。
そしてそのもの自体の有る無しには仮に同じく思いを共有出来なかったとしても、かけがえのないものをなくした時の、その人一人が抱えるあまりにも深く重い喪失感というものの存在には、私も共感が出来るはずだ、なぜならその感覚は私も知っているから、と思ったのです。
本写真展が、そのような集合体にて構成されている事を、お越しの皆さんにも伝わりますよう、祈っている次第です。
そう言えば。
解体の最中の最後の1日に。それはちょうどお昼休憩で解体業者の方らがおやすみされている時間帯だったのですが、校舎に未だ多く残されていたピアノを、工事のお兄さんで音楽の嗜みのある方だったんでしょうね、ピアノを弾かれていて、その音が遠くから優しく聴こえてきました。
それは解体の最中のむき出しになった破壊的な姿の建物の上から美しく響いて、その音はまるで、愛するものの多くの存在に対し、また、消えゆく存在に対して手向けられた花びらのようにも見えて、ああ、こうした柔らかな感性を持った方が校舎を壊してゆくのは、せめてもの救いだなと、思えてなりませんでした。
このような像のない光景は、撮る心には強く作用しても、決して直接的に可視化することが出来ませんね。。。そんな時、つい文章が長くなります。
今も思い出し、響く光景です。